【ごあいさつ】せうりくと申します
この記事にお手を触れてくださったあなた、はじめまして。
せうりくと申します。
メンダコのぬいぐるみが好きな、すこやか人間です。
私の名前についてですが、せうりくと書いてショウリクと読みます。
本名です。
本当です。
どうあがいても明らかな事実です。
もう覆しようがないです。
僕の出生届にはきちんと「古賀 せうりく」と丸っこい文字で書かれていますから。
ほんとうですから。
そう聞くと嘘くさいですよね。
そうなんですよ。
嘘なんですよ。
ねえ。まさか、生まれてこの方せうりくという名前を背負い続けてきたなんてこと、あるはずがありませんよね。普通に考えて。
いつまでも初対面の人に読み間違えられる人生を送ることになりますからね。
どれだけ「ショウリクと読むんです」と根気強く発信し続けても、絶対にあだ名がセウリクになりますからね。
そういう生き方を子どもにさせるなんてこと、普通はできないですよね。
そんなむごいこと、ね。
普通は、ね。
まあ、普通に考えれば、の話なんですけどね。
でも、案外良いこともありますよ。
名前を書くのが簡単だし。
そのくらいしかないですけど。
こう聞くとちょっとマジっぽさが出てきますよね。
……そんな話はさっさと切り上げることにして。
改めて、はじめまして。せうりくといいます。本名です。
僕はこの3月まで都内の大学の哲学科にて近現代の実践哲学を中心に学んできたのですが、今年度で学部を卒業して出版社に就職することとなりました。
社会人としてのスタートを切るにあたって、いままで学んできた哲学の知見を活かした活動をしてみようと思い至り、このnoteでエッセイや小説を投稿することにしました。
それは、文章を書くという行為への強い憧れを果たすためでもあります。
僕は大卒の新社会人です。
本当です。
どうあがいても明らかな事実です。
もう覆しようがないです。
僕の履歴書にはきちんと「J智大学文学部哲学科 卒業」と丸っこい文字で書かれていますから。
ほんとうですから。
そう聞くと嘘くさいですよね。
そうなんですよ。
嘘なんですよ。
そもそも僕は勉強なんてめちゃくちゃ嫌いですからね。
もう親の敵くらい嫌ってますからね。
喉元にピストルを突きつけられても勉強しませんからね、ほんとに。
そのせいで何度か命を失ったことがあるくらいには勉強が嫌いですからね。
これは本当ですよ。
ええ、もちろん。
さすがにこんな嘘はつきませんよ。
ねえ。
こう聞くとそれはそれで嘘くさいですよね。
……そんな話はさっさと切り上げることにして。
改めて、はじめまして。せうりくといいます。本名です。J智大学文学部哲学科卒です。
僕は一回生のときにジェンダー論に触れてから、この社会において「露悪的な男性しぐさ」というものが男性批判の材料としていかに濫用されているかというテーマについて、男性の視点から研究をしています。
僕は男ですから。
ええ。
本当です。
どうあがいても明らかな事実です。
もう覆しようがないです。
僕の戸籍謄本にはきちんと「次男」と丸っこい文字で書かれていますから。
ほんとうですから。
そう聞くと嘘くさいですよね。
そうなんですよ。
嘘なんですよ。
私は男ではありません。
「僕」という一人称から先入観で私が男だと思われたかもしれませんが、私は女です。ブラフで一人称を変えてみました。
僕っ娘とか、そんなかわいらしいものではありませんけれど。生身の人間ですから。
生身の人間って基本的にかわいらしくないですからね。なんかでかくてきもちわるいやつですからね。でかきもですからね。
それに、私の地域だと戸籍謄本はもうデジタル化されてますからね。丸っこい文字で書かれてるわけないですからね。自治体の職員がそういうフォントでも使っていない限りは。
私は男ではありませんよ、ええ。
もちろん。
さすがにこういうところで嘘をつくのはよくないでしょう。土佐日記じゃないんですから。
ねえ。
私は生物学上も女だし、性自認も女です。
揺るぎないヘテロです。
ほんとうですよ。
言っておきますけど、これだけはマジですからね。
こう聞くとかなりうさんくさいですよね。
……そんな話はさっさと切り上げることにして。
改めて、はじめまして。せうりくといいます。本名です。J智大学文学部哲学科卒です。男です。
やっぱり、嘘をつくのは難しいですね。
私のような半端物の仕事だと、どれだけ嘘で隠匿したところでにじみ出てきてしまうものがあります。
どうしてもせうりくという名前は本名だし、どうしても私はJ智大学文学部哲学科卒だし、どうしても私は男なんですよ。
ええ。
本当ですよ。
全部本当ですからね。
お間違いのないように。
……やっぱりだめだなあ。
まあ、あんまり嘘ばかりついていると言葉の信憑性が恒久的に損なわれてしまいますから、これでいいのかもしれませんが。
でもそれはそれとして、虚構をつくりあげる技能は高めていきたいと思っています。
事実というのは往々にして閉じた世界であって、ありえないほど退屈で、信じられないほど陰惨としていて、極めて不愉快です。
もちろんその暗澹たる事実に眼を向けることは健全に生きていくために必要な作業なのかもしれませんが、私はこれまでの人生で、この社会で健全に生きていく自信をことごとく失ってきました。
もう私には、現実を直視する体力さえ残っていないのです。
現実を生きられなくなった人間がいつか再び健全な世界に帰ってくるためには、いちど虚構だけで構築されたでたらめな世界に全身どっぷり浸かって、虚構を拠り所とした心のゆとりをつくる必要があると私は考えています。
事実によってつけられた傷を、虚構に浸ることで癒やす。
これは、実際誰もが生活のなかで行っていることではないでしょうか。
私は虚構の力を信じています。
虚構とは、とびっきりの慰みであり、無口な抱擁なのです。
それは事実に立ち向かうためにも必要ですし、あるいは虚構こそが真実であり本質であるとさえ、私は考えています。
事実というのは暴力的です。というよりむしろ暴力です。
集団的な社会というのは必ず何かしらの暴力によって成立していて、それは「正義」と呼ばれることもあるそうですが、つまり現実を生きる上では、うまく暴力と付き合っていく必要があるわけです。ときには自らもその暴力を行使しながら。
これは桜庭一樹氏の小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』における「実弾」の概念を援用して考えることができます。
即ち、「実弾」というのは、社会が規定するところの暴力的な事実とうまく渡り合う力であって、それを撃つということは、自らも暴力を行使するということを意味してもいるのです。
社会における正義の力が強まるほど、事実がもつ暴力性はますます高まっていきます。「実弾」はより殺傷性の高い鈍重で攻撃的なフォルムへと変貌し、それを扱うためにはより高度な技術が必要になります。
つまり、正義が絶対的な力を持つ社会では、「実弾」を扱うことのできない弱者が多く生まれることになるのです。
現にこの社会にも、事実に打ち負かされてしまった人々というのは、もはや看過できないほど多く存在しているのではないでしょうか。
そして、そうした人々は、殺傷能力のない「砂糖菓子の弾丸」をぽこぽこ撃ち続けながら、いつかの救いに恃んでいるのです。
つまり、「砂糖菓子の弾丸」とは、虚構による慰みなのです。
事実に打ち負かされた者が虚構という夢を見ることで飢えを満たすのは、空しい営みにも見えますが、私はこの営みの中にこそ光明があると考えています。
祈ることをやめなければいつか、無力な砂糖菓子の弾丸が、全てを救う銀の弾丸に姿を変えるときが来るはずです。
そのために私は、虚構の持つ力を信じることから始めたいのです。
さて、このアカウントでは今後、事実そうで事実じゃないちょっと事実な内容のエッセイのようなものや、こぢんまりとした小説をちまちま書いていくつもりです。
どうか今後ともご愛顧いただけると、幸いです。
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