付録D 量子力学|真実度999の書『I<わたし>真実と主観性』|
ここでニュートン力学的パラダイムと量子力学的パラダイムの違いを、霊的な事柄に関心のある読者向けに大まかに説明しておきます。科学を志す者にとっては、先端理論物理学の数学的理解が進展するためには、この物理学自体が発達しなければなりませんでした。
十七世紀後半に入り、アイザック・ニュートンの古典力学の確定系は、微積分で定式化されました。十九世紀後半になると、ジェームズ・クラーク・マックスウェルは、光が波としての性質を持つことを電磁気学的な発見によって解明しました。
一九〇〇年頃に、マックス・プランクは「黒体放射」の実験で最小単位の振動数の変数を見つけることで、有名な「プランク定数」(h=6.626 × 10×-34乗 ジュール / 秒)を導き出しました。そして、一九〇五年にアインシュタインは光電効果を分析し、光は粒子で構成されていることを明らかにしました。さらに、一九一三年に、ニールス・ボーアが水素原子の線スペクトルを説明しました(ボーアの原子模型)。
一九二三年になると、コンプトンは光の粒子が光子であることを確定しました。そして一九二七年までに、デヴィソン、ジャーマン、ブログリアは、光や電子はともに波でも粒子でもあることを明らかにしました。また一九三〇年までに、ハイゼンベルグ、シュレーディンガー、ボルン、ボーア、ディラックらの共同作業によって、量子力学の微視的な物理学が発展を見せました。
先端理論物理学の理解は、科学思想に深く関係する認識論の基本概念の解釈に関わってきます。量子の発見に密接にかかわる最も重要な哲学的見解のひとつは、素粒子の現象における因果律の崩壊(非因果性)に関係しています。
量子力学を理解するための基本原則は、従来のより巨視的な物理学の馴染み深い常識とはやや異なっています。量子力学の基盤は、位置や運動量、時間、電位、運動エネルギー、角度に加え、人間が観察する行為などの非実体的な要素、すなわち意識に左右されます(有名なハイゼンベルグの不確定性原理)。
霊的な生徒が把握しなければならない重要なポイントは、わたしたちが現実だと見なすもののさまざまな基層は、人間の観察という単純な行為によって著しい影響を受け、変更が可能だということです。
数学はさておき量子論の生徒たちは、自らが発見するものは意図の産物であり、したがって自らが発見するものは何を求めているかによる、と結論付けるでしょう。
上記を実証する例としてよく引き合いに出されるのは次のようなものです。物質の原子が反物質の原資と遭遇すると、異なる方向に飛び去っていくふたつの光子が放出されます。放出されたばかりの光子は回転していません。けれども、人間がひとつの光子を観察すると、たちまち回転を始めます。すると同時に、もうひとつの光子も反対方向に回転し始めます。この現象はひとりでに起こることはありませんが、唯一、人間の観察の結果として起こります。これは、人間の主観的な意識にとっても、物質の現象的世界にとっても、ともに基調を成すマトリックス/空間格子のフィールドがあることを示しています。
解説
量子力学の発見は、人間の観察や関与が科学的に研究される事象に及ぼす影響について説明するための、認識論的、哲学的理解の刷新を要求することになりました。一九二七年の、いわゆる「コペンハーゲン解釈」をめぐるソルヴェイ会議では、有名なシュレーディンガー方程式が観察者の影響を特定するのに不十分であるという問題に関して、ボーア、アインシュタイン、ディラック、フォン・ノイマン、ウィグナーら他に解釈の違いが生じ、議論を呼びました。これが後に「ハイゼンベルグ・チョイス」という専門用語にもなりました(Stapp,H.を参照してください)。
しかしこの議論が、線形から非線形領域へと飛び越える端緒となりました。アインシュタインがこの移行を拒否し、前記の事象を説明するために意識を不可欠な要素として取り入れる視点を否定したことは興味深いことです(それは、アインシュタインの意識レベルがニュートンと同じ499に測定されることに関連しています)。
キネシオロジーテストによって「イエス」か「イエスではない(not yes)」のいずれかを示すことは前述の通りです。これは、量子力学では「フォン・ノイマンの解釈」と呼ばれる理論に関連しています。その理論とは、自然の事象を完全に理解するためには、同時に起こるふたつのプロセス、すなわち、プロセスⅠとプロセスⅡを認識しなければならないというものです。プロセスⅡが物理的特性に制限される一方で、プロセスⅠは、意図と選択という人間の意識の要素を含んでいます。
換言すれば、わたしたちが発見するものは、すでに問いそのものの特性とその背後にある意図の影響を受け、選択されているということです。
科学と意識の研究者が直面する課題とは、基本的にコンテクスト(文脈/状況)とコンテント(内容/中身)の関係を理解することと、それがどう脳の機能に関係しているかということですーーそこでのコンテントと機能は、コンテクストのフィールドの影響を受けています。すなわち、選択は可能を示す「イエス」か「イエスではない」で退けられるかのどちらかです。
知性が意識を量子論的に解釈しようと試みると、(たとえば、経験は波動関数が崩壊した結果として起こる、など)、自らの次元の限界というガラスの天井(目に見えない障害)にぶちあたってしまい、パラダイム自体を飛び越えないかぎりは(意識レベル500)、先に進むことができません。そして、それが神秘家の真実のパラダイムを開くのです。
量子物理学者はコンテントの専門家で、神秘家はコンテクストの専門家だと言えます。そしてその間にあるのが、まさに線形から非線形へ、自我から霊(スピリット)へ、「~について知る」から「真実そのものになることで知る」への飛躍です。
自我を滅することで自我との同一化を超越するという霊的修練の目的は、パラダイムの限界を解消するための変容を促すことにあります。自己の知が、制限されたコンテントから無限のコンテクストに移り、存在そのものの源、すなわち無限の<わたし>【=本当のわたし】の根源的な主観性を実現することによって、冒険は完結します。
議論
量子力学は、奇跡の発生や祈りの効果、そして自由意志の行使が結果に影響を与えるーー因果律には不可欠なフォースを行使することなく、選択によってコンテクストを変えることで、潜在的可能性を変更するーーといった現象の論理的根拠を提供します。
もし宇宙が決定的な因果律(ニュートン的パラダイム)に制限されているとすれば、あらゆる事象はフォースの結果として起こり、終わることのない従属的な原因の連鎖を生み出しますーーここに霊的責任や自由の余地はありません。事実を言えば、すべての活動は条件の変化に影響されるだけで、それに続いて生じる現象は、その本質そのもの表現である反応や応答であり、外的な資源に由来するものではありません。
つまり、一見すると事象の連鎖として視覚的に知覚されるものは、実は刺激や反応であり、人間の意識は多数の可能な反応の中から、好きなものを選びとる自由を与えられているのです。たとえば、誰も他人を”怒らせる”ことなどできませんし、何かをさせる”原因”となることもできません。
したがって、量子力学の世界では、量子論の発見によって因果律の原則が崩壊してしまったことが重要なポイントとなります。”因果関係”は、実証可能な現実というよりは、むしろ有効な理論や説明といった知的作業と言えるのです。
この重要な認識の有用性を説明するために、”あるアイデアにとって絶好の時が来た”を例に取ってみましょう。ここではアイデアがコンテントであり、”絶好の時が来た”がコンテクストです。コンテクストは、実際に無数の要素によって構成されています。そして、バランスや強度、密度(社会政治的、経済的、地理的要素など)が臨界点に達すると、アイデアは現実化するために実行に移されます。
この実行に移すというメカニズムは、”原因”によるのではなく、民衆の意志とそのときのトレンドの風向きに依存しています。映画がヒットすることで、突然過ぎ去った時代がもてはやされたり、あらゆる種類の音楽や装飾様式、ファッション、ふるまいが突如再浮上することがあります。たとえば、二〇〇一年九月十一日に起こった事件は、アメリカ国旗の掲揚を再び盛んにしました。
シンボルは、コンテントにもコンテクストにもその両方にもなり、微妙かつパワフルで幅広い影響を価値観や言動、優先順位に与えます。帝国全土が民間のスキャンダルで滅びることもあります。ですから、一般的で特定できないような条件(コンテクスト)が、無数の潜在的可能性が出現するのを促進したり妨げたりすることがわかります。したがって、そのときに普及している政治的、経済的、社会的、霊的姿勢が統合的であることがきわめて重要なのです。というのも、それらが社会のコンテクストの構成要素であり、のちに遠大な結果をもたらす決断と行動に影響を与える、無数の選択の土壌になるからです。
また、宇宙と意識の相互作用をさらに解明するために、一見すると”コンテント”と”コンテクスト”の関係に見えるものを明確にする必要があります。すると、そのどちらもが実際は恣意的な意識の焦点の違いにすぎないことがすぐに明らかとなります。どちらの用語も異なるカテゴリーや条件というよりは、基本的に、精神活動やものの見方を表しているのです。
対象のフィールドでは、注目し、検査する対象をひとつあるいはいくらかでも選択したとすれば、残りのすべてが”コンテクスト”となります。そして、対象が別の対象に移った時点で、今まで対象だったものは”コンテント”から”コンテクスト”と呼ばれるものの一部に変わります。たとえば、もしわたしたちが惑星地球(コンテント)に注目すれば、それ以外の宇宙はコンテクストになります。けれども、火星を注目の対象とすれば、地球はたちまち残りの宇宙というコンテクストの一部となります。
つまり、「創造の全体性の十全性」を実際にばらばらに分割しているのは精神活動の中だけであり、恣意的な知覚や観察の視点を介して分断が行われているのです。そこにあるのは実証可能なものではなく、唯一観察可能なものだけで、観察とは、心(マインド)そのものが恣意的に選択した結果にすぎません。
注目の焦点を変えるだけで、コンテントは言語的にコンテクストとなり、その逆も起こります。したがって、目に見える宇宙の閃光とその”時間”や”事象”における記述は”連続性”を表しますが、”原因”や”先行性”、”帰結性”、”ここ”や”あそこ”は本質的に精神活動の描写であり、仮設上の”客観的真実”を示すものではありません。
あらゆる知識は認識論的な基盤に依存し、そこから発生しています。そして、その基盤自体が理解のコンテクストを形成しています。こうしてあらゆる情報システムは、完全な理解に達するために、意識の特性を理解することを余儀なくされます。研究がさらに深まってくると、すべての”知っている状態”は、純然たる主観性であり、またそれ以外に可能なことは何ひとつないことが明らかとなります。というのも、研究者の「自己」はすでに存在するものすべてを包含し、さもなければ、そもそも”知っている状態”という特性や機能を持ち得ないからです。
したがって、思考で選んだ事象の目撃者はすべて、コンテントであると同時にコンテクストであり、二元性そのものの認識論的なジレンマの罠から逃れることができません。そのため、心(マインド)はただ本質について、”知る”にとどまり、真に本質を理解する、すなわち、意識と本質がひとつに融合するという非言語的な悟りを達成することはできません。
上記のたとえや説明によって、わたしたちは非線形領域に対する理解を深めることができます。複雑に相互作用する無数の構成要素がフィールドを形成し、そのフィールドが、無数の識別不能な方法でさらに無数の潜在的反応を、さらにそれぞれの反応が無数の可能性に影響されています。したがって、知覚できるできないにかかわらず、すべての仮説的な”原因”は、あらゆる時間を通じての集合的総体という全宇宙の全体性であることがわかります。それは、「創造」の完全性から発展し、光速よりも速く無限の領域に拡張し続けます。
このように、人間の心(マインド)が何かの”原因”を認識できると信じるのは、壮大な幻想であり自我の虚勢です。存在するものすべてと、あらゆる可能性の無限なるコンテクストが神であることは明らかです。
懲りずに何回も読まないと、把握できないような内容だと思います。 by 懲りずに真理郎
コンテント(内容/中身)と、コンテクスト(文脈/状況)を、把握するための記事を書いています。↓
地球から争いがなくなる状態は、すべての人が、すべての人が幸せであることを願っている/祈っている状態だと思っています。幸せは、すべての人が幸せであって初めて成立するものだと思っています。わたしはあなた、あなたはわたし、色即是空、空即是色、コンテント(内容/中身)はコンテクスト(文脈/状況)、コンテクスト(文脈/状況)はコンテント(内容/中身)。
今回の記事が146記事目です。みんなが、自己アイデンティティの執着を超えて、懲りずに真理郎=地球の愛と平和のために真理を探究する道に乗っている人、を思い出せればいいなと思ってます。誰でもそう在れる、懲りずに真理郎です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?