「名言との対話」4月3日。小林古径「音のする盆をかくのは大変だ。写実というものも、そこまで行かなければ本当の写実ではない」
小林 古径(旧字:古徑、こばやし こけい、1883年〈明治16年〉2月11日- 1957年〈昭和32年〉4月3日)は、大正から昭和にかけての日本画家。享年74。
小林古径は17歳から絵画展に出展し一等褒状を連続して獲得する。1922年には日本美術院の留学生として渡欧。代表作の一つとなった1931年に「髪」は線描の技術の極致である。1944年東京美術学校教授。岡倉天心の紹介で、安田靫彦と原三渓の援助を受ける。
67歳、文化勲章、そして翌年に文化功労者を受けているのは珍しい。ほぼ同世代の安田靫彦が94歳の長寿を恵まれたのに対し、古径は74歳で4月3日に永眠。その差は20年あった。
天心からは「モットモット高い所、結局信貴山縁起位まで遡って標準を置いて見よ」と指導を受け、「絵というものの大義」を教えられて、一生の信条となった。
6歳下の弟弟子の奥村土牛(1889−1990年)は、「先生の絵を拝見するとわたしは先生と対座しているような気がします」「古径先生の美しい御人格に打たれて、こんなにも清らかな世界があるものかと驚いた感激は忘れることができません」「先生ほどの高潔な人がこの世に何人いるだろうか」「ご自分に厳しく、人に優しい方であった」と述懐しているほどの人格者だった。また土牛は「今日私の座右の銘としている−−絵のことは一時間でも忘れては駄目だ−−という言葉は、その頃先生(小林古径)からいただいたものです。」と慕っている。
30代の片岡球子には「今のあなたの絵は、ゲテモノに違いありません。しかし、ゲテモノと本物は、紙一重の差です。あなたはそのゲテモノを捨ててはいけない。自分で自分の絵にゲロが出るほど描き続けなさい。そのうちにはっと嫌になってくる。いつか必ず自分の絵に、あきてしまう時が来ます。その時から、あなたの絵は変わるでしょう。薄紙をはぐように変わってきます。それまでに、何年かかるかわかりませんが、あなたの絵を絶対に変えてはなりません。誰がなんと言おうとも、そんなことに耳を傾けることはいりません」と励ましている。
土牛、球子らへの接し方にみえるように、指導者としても影響力が大きかったようだ。
音がでる、馥郁(ふくいく)たる匂いがたつ、確かに岡倉天心がかろうじて守り発展させた日本画の名人たちの絵にはそういう雰囲気がある。どこまでも突きつめていくと、そういう境地にまで達するのであろう。
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