「名言との対話」4月28日。岡鹿之助「 日本油絵の樹立」
岡 鹿之助(おか しかのすけ、1898年(明治31年)7月2日 - 1978年(昭和53年)4月28日)は、昭和時代に活躍した洋画家。
麻布中学校2年のときから、岡田三郎助に素描を学ぶ。1919年 東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。1925年 パリ留学。藤田嗣治に師事。1972年 11月に文化勲章受章。
岡鹿之助『ひたすら造詣の言葉で』(中央公論美術出版)を読んだ。画家は、描いた絵だけで勝負するのが本来だが、同時に文章の才能があり、見事なエッセイを書く人もいる。その一人が岡鹿之助だ。描いた絵の背景に画家の邂逅、運命、思想などをうかがうことができる。
ボナアルは芸術の革命者ではない。70余歳の今日まで、ひたすら己の道一と筋をコツコツと開拓するに余念がなかった。、、「実に月日の経つのは早い」と嘆くのも、「絵を描くのは楽しい」と喜ぶのも聞き捨てにならぬ老匠の若い精神の言わせる技であろう。、、自分の描いた1枚1枚を足場として、一段一段と梯子を登っていく様な絶えることのない創造へのひたむきな心を、齢70を越すまでも続けていくと、評家が「色の魔術師」と呼ぶほどの前人未到の境地に到達する。、、ボナアルこそはまことにフランスの花咲爺さんだと思っている。
70歳を間近に新たな恋人を得てますます脂ののってきたピカソや、80代に踏み込むマチスのおう盛な仕事ぶり、、、、、(ピカソ)70起こしても少しも恐れを見せないどころか、新境地を切り開いていこうとする意力のたくましさにはただただ敬服のほかはない。、、、ピカソがひとたび滞在した所は、ことごとく名所になりました。弘法大師みたいです。
パリの画家たちは、非常な勉強家だ。、、いつも人が見ようが見まいが、自分の仕事を掘り下げてゆく努力を続ける。それが、30になっても、40になっても、60になっても持続してゆく、、、、。パリへ行って17年、僕はとにかく勉強することを学んだ。
実際家とは、自分の性格に適した素材をつかみ、それを手なずけ、素材にものを言わせるまで経験を積んだ、、という意味であろう。
旅に出て道の土地をさまよう根拠は、秩序のある偶然にめぐり合わないかと言う願いからである。、、、、たまたま、自然が秩序だって現れている時、私たちは、その自然を美しいと感じるのである。
空間感覚の秩序が造形的に構成されている。そいつはひどく新鮮なんです。そういうことが私には大事に思われますね。
私もよく行く箱根のポーラ美術館は戦後の個人コレクションでは質量とも日本最大級の規模だ。ここには、アンリ・ルソー、坂本繁次郎、などと並んで岡鹿之助の作品が展示されている。 最近知った小杉小二郎は、「人生には、緊張感を持って生活していると必要な時に必要な人が現れる。画家の中川一政、岡鹿之助、版画家の長谷川清」と言っている。岡鹿之助の名前は、ときどき見かけている。その絵は、静けさに満ちた幻想的な風景画が印象的だ。代表作は、観測所(信行弟)、地蔵尊のある雪の山(積雪)、雪の発電所、花と廃墟。段丘(絶筆)。村荘、、、など。
岡鹿之助の言葉を拾うと、年齢に対する意識が強いという印象を受ける。ボナール、マチス、ピカソなど、晩年に至るまで勉強と精進を続けた同時代の偉大な画家の存在を励みにしていたのだろう。
師の岡田三郎助からは、「絵画といふものは男子一生の力を尽くしても尚足りない仕事なのであるから、あせらずにコツコツやることだ、、」 といわれており、岡本人も「 日本油絵の樹立」の後には、「それは我らの時代にと急がないで良い。次に来る時代、あるいはまたその次に来る時代にでも結構だ。ただ私たちは次に来る者へ手渡しするバトンだけはしっかり渡したい」と続く。歴史の中での自分の立ち位置を自覚している。自分一代ではなく、永遠の流れの中に生きているのであろう。
わたしの人物遍歴の過程で、ときどきはまた岡鹿之助に出会うだろう。そのプロセスを愉しみたい。
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