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「名言との対話」6月10日。大町桂月「一日に千里の道を行くよりも、十日に千里行くぞ楽しき」

大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日明治2年1月24日)- 1925年大正14年)6月10日)は、詩人歌人随筆家評論家。享年56。

高知市出身。筆名の桂月は、観月の名所・桂浜をつづめたもの。東京帝大国文科卒。中学教師を経て、博文館に入社。韻文、随筆、紀行、評論、史伝、人生訓などを執筆。格調高い文体で美文家として名高い。1913年発刊の『人の運』はベストセラーとなった。

酒と旅を愛する作家であり、「酒仙」山水開眼の士」とも呼ばれた。層雲峡、羽衣の滝などの命名者である。十和田湖奥入瀬を愛し、晩年は十和田湖に近い蔦温泉に移住した。蔦温泉には大町桂月史料館がある。

福沢諭吉を評して「天才的偉人にあらず、常識的偉人だ」と喝破している桂月は、与謝野晶子との論争でも有名になっている。

与謝野晶子が「君死にたまうことなかれ」(半年前に召集され旅順攻略戦に加わっていた弟宗七を嘆いて。明星1904年9月号)を発表したとき、「教育勅語、宣戦詔勅を非難する大胆な行為」であり、世を害する思想などと批判を受けた。特に桂月は「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検分すれば、乱臣也なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と、雑誌『太陽』で論難した。

これに対する晶子の反論は見事なものだった。「私が『君死にたまふことなかれ』と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠臣愛国などの文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへって危険と申すものに候はずや」(以下略)と述べ、「まことの心をうたはぬ歌に、何のねうちか候べき」と反論した。この最後のこの一行はとどめの一撃である。

大町桂月 名作全集』を手にした。これは、「赤城山」「秋の筑波山」「足柄の山水」から始まり、最後は「夜の高尾山」まで65編を収録している。41「多摩川冒険記」と65「夜の高尾山」などを読んでみたが、友人数人との道中記で、面白おかしく場面が展開するので、実に楽しく読める。暴れ川であった多摩川の夏の氾濫後、3人の友との3-4日の冒険活劇では、二子、登戸、百草園、日野、立川などの名が出てくる。さいごは「記して血気の士を戒しむ」で終わっている。

高尾山へは三馬鹿で出かけている。ここでも馬鹿々々しい3人の会話が続く。高尾山の山頂では「西に富士、東に日光、関八州は寸眸の中に収まる」と書く。「気位を高尾の山に上り来て 我天下をば小とするなり」「脚力の強きばかりを誇りかに 阿呆の鼻の高尾山かな」などの駄句も並べている。山上で食べるはずだった「香魚」を見失っていること気がつき、「ははあ、ははあ」で終わっている。

戒名は清文院桂月鉄脚居士。全国、そして朝鮮、旧満州までを踏破したことを鉄の脚、そして面白おかしい旅の様を名調子で書く美文家であったことを清文とし、桂月の特徴をあらわしたすぐれた戒名である。

「一日に千里の道を行くよりも、十日に千里行くぞ楽しき」という言葉は、目的地に早く着くことを良しとせず、道中を楽しみながらゆっくりと行こうという桂月の旅のやり方を示している。江戸時代の『東海道中膝栗毛』の明治・大正版の雰囲気がある。またこの流れは、昭和時代に人気のあった鉄道紀行にも通じている気がする。旅とは本来、道中のことなのだ。

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