「名言との対話」9月7日。色川大吉「同時代史は、、、めいめいが『自分史』として書かねばならないものだとおもう」
色川 大吉(いろかわ だいきち、1925年〈大正14年〉7月23日 - 2021年〈令和3年〉9月7日)は、日本の歴史家。 享年96。
旧制第二高等学校から東京帝大文学部に入学。学徒出陣。復員後、1948年に卒業。東京経済大学の講師を経て、1967年教授。亡くなる前日、親友で色川を介護していた上野千鶴子が、死後の各種手続きをするために婚姻届を提出し、わずか15時間の関係にあったという資料もみつけた。
色川は1968年に多摩史研究会を結成し、市民の手による地域史研究の先駆となる。その成果は『明治精神史』(1964年)にまとめられた。「色川史学」と呼ばれた。
色川大吉『ある昭和史ー自分史の試み』(中公文庫)を何度か読んでいる。自分の体験とからめながら日本近代史を描こうとした作品である。色川は1925年生まれ。私の父は1923年、母は1927年だから、同世代である。父母がどのような時代を生きたのかがよくわかった。「常民」の立場から書かれ、1975年に刊行されたこの名著は「自分史」ブームを出現させたことで有名である。
太平洋戦争では男子4人に1人が出征。2世帯に1人以上が兵士を送り出した、300万人の日本人が死んだ。5世帯に1人が死んだ。2000万人以上の人々が涙にくれた。1500万人が家を失った。この数字の背後にある庶民の体験をつづった作品だが、この当時の人々にはそれぞれのドラマがあった。著者によれば、歴史とはさまざまな評価や情念や視点を組み合わせながら、同時にそれらを越えてある方向に向かおうとする非情な趨勢を見定めることである。
庶民生活の変遷から書きおこし、十五年戦争を生きた一庶民=私の「個人史」を足場にして全体の状況を浮かび上らせようと試みた。、、、、同時代史は、、、めいめいが「自分史」として書かねばならないものだとおもう。
その人にとってのもっとも劇的だった生を、全体史のなかに自覚することではないのか、そこに自分の存在証明(アイデンティティ)を見出し、自分をそのおおきなものの一要素として認識することではないのか?と。
人は自分の小さな知見と全体史とのあいあだの大きな齟齬に気づいてはじめて、歴史意識をみずからのものにする。
個人的なものと全体的なもの、主観的なものと客観的なもの、内在的なものと超越的なものとの矛盾や齟齬や二律背反や関連を認識し、自己を相対化してとらえる眼を獲得することこそ歴史を学ぶ意味ではないのか。
黙々と社会の底辺に生きた常民的な人びとを通して、一時代の歴史を書くことができなかと考える。
地方に、底辺に、野に、埋もれている人民のすぐれた師たちを掘り起し、顕彰し、現代によみがえらせ、その力を借りて未来を拓こうとした仕事ではなかったのか。(橋本義夫の仕事)
2023年に色川大吉『明治人 その青春群像』(筑摩書房)を浴読した。ある一人の明治の常民の一生を追いながら、明治の可能性を追った力作だ。神保町の古本屋で手に入れた本だ。
明治人には精神的な骨格と変革期の焦燥がある。それを体現した無数の宝の一人が北村透谷と同年生まれの恋敵・平野友輔だ。立身出世型ではない、在村活動家型の人間像の一人の地方知識人である。平野の生涯は「一篇の優しい長い詩」であると歴史家である色川大吉は「追記」で総括している。こういう明治人が全国に無数にいた。それが明治国家を築いたのだ。
平野友輔(1857年生)は町医者、政治家、郷土(三多摩)の指導者として生涯を送った。この本では、無名の主人公・平野を軸に交錯した有名、無名の明治人が登場する。石坂昌孝(自由民権)。北村透谷(婚約者・美那子と結婚)。福沢諭吉(言論人)。森鴎外(東大医学部)。坪内逍遥(一級上の落第生)。北村透谷。広瀬淡窓(愛吟)。奥宮健之(陽明学)。矢島楫子婦人矯風会)。徳富蘇峰(平民主義)。内村鑑三(キリスト者)。二宮尊徳(東洋道徳)。ベルツ(医師)。平野藤子(妻・看護婦。100歳)。海老名弾正(同志社総長)。明治天皇(大帝)。石川啄木(詩人)。有島武郎(文学者)、、、。
平野友輔をあらわす言葉を拾ってみよう。ーーー正義感。民権家。東洋思想。首尾一貫した生活態度。たゆまざる人。ナショナリズム。愚痴を言わない明治の人。質素。勤勉家・自己制御と人格鍛錬。教養と克己。聖書と論語。和魂洋才。墓はいらない。享年72。湘南地方人格の第一人者。平野友輔は、東洋の思想と西洋の文化を体現した、明治の知識人の一つの典型だ。こういう人たちが全国にいたことが近代日本の幸運だった。
平野友輔というあまり有名でもない藤沢出身の一人の人物の伝記的作品であるが、平野を中心に置きながら恋敵・北村透谷、東大医学部の同級生・森鴎外、地方豪農で自由民権運動を担った石坂昌孝、年下ながらその思想に私淑していた内村鑑三らとのとつながりも紹介しながら、明治人の精神を明らかにしようとした研究である。
平野友輔は安政4年(1857) 藤沢宿坂戸の町人の長男に生まれる。小笠原東陽の 耕余塾 に学び,医学を志し,明治12年東京大学医学部にすすむ。このころは自由民権運動中であり,卒業後に八王子に医院を開業した時も,多摩の民権グループ に加わって自由党員として積極的に行動していた。明治17年10月の自由党解党には,神奈川県(当時三多摩地区は神奈川県 )党員総代表として参加した。明治19年,藤沢の長後の羽根沢屋(博物館がある)で医院を開業した。明治22年には,故郷の自宅に医院を開業し, 明治35年には衆議院議員に当選している。昭和3年4月3日永眠。
相模と多摩を中心に活躍した人物が数多くこの書には登場する。こういったよき常民だった平野のような人物が無数に埋もれていると想像する色川は、文化的蓄積と魅力を持った地方人が幕末において分厚い層を形成しており、この層の存在が日本の近代化を推進した推力であったと考えている。
以下、明治人の本質が典型的に表れていると色川がいう平野友輔という人物について記しながら明治人を考えていく。
「借りる人となるなかれ、貸す人となるなかれ」
ひとに負けぬ正義感をもち、迫害にさらされているものへの同情心に厚かった平野
友輔の真価は、これ(男女の対等な人格の関係)を恋愛中の一時的な気まぐれの関係とせず生涯孜々としてつとめて、その立場を貫きとおしたというところにある。
「朝はパン、夜は肉、いちばん好きだったのはシチューのようなもので、、、」
一般民衆、特に青年や婦人の意識の度合いが文明の進歩の評価の基準だった。
身を起こし生涯の奮闘によって大政治家になるというパターンの英雄像を持っていた。クロムウェル、リンカーン、ジスレリー、、)
「真摯なる人物の著書は大学以上の大学校なり」
「父の理想は健康美と平等な人生の享受と労働の尊重にあったのだと思います」
たゆまざる人であったらしい。
明治的健康の凡人型が、平野友輔のような人にあらわれている
「父も母も子供たちのまえで愚痴というものをいったことのない明治人でした」
一生を自己抑制と人格鍛錬に努力し続けてきた人
「世人が君を以て湘南地方人格第一人者となす、まことに以てなり。」(親友・金子角之助藤沢市長)
あらゆる分野、あらゆる地方に、平野友輔を典型とする人物が無数にいたのではないか、それが明治という時代をつくったという色川大吉の説に深く共感する。
この本の中では、特に「ある常民の足跡」という章も興味深かった。
1902年生まれの橋本義夫という東京府下南多摩郡川口村楢原生まれの常民の歴史を描いた作品だ。橋本家は三多摩壮士の流を汲む川口壮士の家系である。川口村や元八王子村は、自由民権運動がもっともさかんな地方であった。カトリック信仰と結んだ部落解放運動がいち早く起った地域でもあった。それら明治10年代の自由民権運動に合流していった。
もともとあった幕府天領であったために差別された土地柄もあり、民権思想に裏打ちされて自由民権運動が人々の心をとらえたのであろう。
「常民」とは何か。農耕、漁業。里人。家の永続。内部の歴史と固有信仰。次代の人に伝える文化的役割。以上がキーワードだ。
内村鑑三の影響。下中弥三郎の農民自治会運動。野呂栄太郎や羽仁五郎を助ける。岩波茂雄に傾倒。
八王子の大きな書店を経営。揺藍社。多摩郷土研究会。多摩自由大学。横山村の万葉歌碑「赤駒を、、」の建立。北村透谷碑。麦の碑(「宗兵衛麦」の品種改良家・河井宗兵衛)。おかぼ碑(陸稲品種「平山」の創始者・林丈太郎)。民衆史蹟。近代先覚の碑(部落解放指導者・山上卓樹ら)。絹の道碑(鑓水商人)。コックスの碑。御母讃の碑。多摩丘陵博物館構想。ふだん記の運動(ハガキをうんと書け)。
橋本義夫は伝統の革新的再生者だった。地方に、底辺に、野に、埋もれている優れた師たちを掘り起し、顕彰し、甦らせ、その力を借りて未来を拓こうとした。
現代の常民の見事な祖型は田中正造にある。水俣の石牟礼道子。筑豊の上野英信と森崎和江。東北の真壁仁、むのたけじ、佐藤藤三郎、、、、、、。
色川は、こうした数千の常民の小リーダーが頑固に頑張り抜いていることを知ってこの国への希望を失ってはいない。
2011年に東北の道の駅を調査をしたとき、駅長さんたちの執念と人柄に敬意を抱いたが、それは色川のいう「常民」のリーダーたちだったと考えると腑に落ちる。これらの人々は人物記念館が建立されるようなトップクラスの人物たちではないが、日本人の原型を保持している人物である。優れた生き方をしている常民のリーダーたちである。自分史運動、地域起こし、人物の掘りおこし、そして人物教育などが、「常民」というキーワードでつながってきた。
全国の人物を訪ねる旅の中でも、対象となっている偉人も、そして彼を育んだ両親たちにも「明治の人」といえるような人格を感ずることが多い。
私は「自分史」を提唱する色川大吉や、新しい「維新史」を書こうとした渡辺京二の仕事に敬意を払っている。私の「名言との対話」も同じような意図がある。
今まで自分史らしきものを断片的に書物に入れ込んできたが、私がその中にいる同時代の全体史との関連をきちんと書いてはこなかった。それは上り坂の20世紀後半から、下り坂の21世紀前半という時代ということになるだろうか。自分の属した組織、取り組んだ仕事は、時代と密接に関わっていることは間違いないのだから、今後はそこも意識していこう。
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