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「名言との対話」10月21日。細川護立「美術の殿様」

細川 護立(ほそかわ もりたつ、1883年(明治16年)10月21日 - 1970年(昭和45年)11月18日)は、日本の宮内官僚、政治家。

肥後熊本藩の藩主・細川家の第16代当主。男爵、のちに侯爵となった。

学習院高等科、東京帝大に入学し、中退。学習院時代から『白樺』の活動に同人として参加し、武者小路実篤志賀直哉と親しく交わった。また梅原龍三郎安井曾太郎などの芸術家とも親しく交際した。「美術の殿様」と呼ばれるほど、美術品を収集した。

戦前には貴族院議員を約20年つとめた。戦後は文化財保護委員、正倉院評議会々員、国立近代美術館評議員国立西洋美術館評議員東洋文庫理事長などの要職にあった。

細川護立がつくった目白台の「永青文庫」には何度か足を運んでいる。熊本細川家の文庫で、4階建ての古い洋館である。2度目の訪問時には「千利休と武将茶人」という企画展をやっていた。 熊本地震の募金箱もあった。

2011年。熊本県立美術館に隣接する細川コレクション永青文庫展示を観た。細川家のお寺永源庵の永と、幽斎が奪回した青龍寺城の青を組み合わせて、16代の細川護立が命名したのが東京の永青文庫である。 近くの細川刑部邸にも入ってみた。

安井曽太郎(1888-1955年)の「大観先生像」という絵がある。晩年の顔を描いている。細川護立侯爵主催で「大観先生写生の会」が開かれ、安井、梅原龍三郎小林古径などが思い思いに絵筆を振るった時の作品である。

1993年に、日本新党から非自民・非共産連立政権を樹立し、総理大臣となった細川護熙は孫である。「内訟録−細川護熙総理大臣日記」にこう記している。「幽斎は常に中庸を行った。中庸とは右と左の中間ということではなくて、大道を行くということなのですが、それははやはり歴史感覚から生まれるものですね」。

細川護熙は60歳で政界を引退して、製陶や絵画など芸術三昧の日々を送っている。2011年に「胸中の山水」展をみたこともある。細川護熙は人生の前半は政治家、後半は芸術を中心とした数寄者人生を過ごしている。途方もない道を歩いているという気がしてくるが、これも祖父、あるいは細川家の血のなせる業だろう。

細川護立の言葉は、見つからなかったので、「美術の殿様」を採ることにした。大文化人で、美術界のパトロンとして、散財の限りを尽くしたこの人をあらわす言葉である。



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