「名言との対話」11月5日。島村抱月「人生の中枢意義は、言うまでもなく実行である」
島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉- 1918年〈大正7年〉11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。
島根県浜田市出身。苦学し東京専門学校文学科で坪内逍遥に学び1894年に卒業。「早稲田文学」(第一次)記者、読売新聞を経て、1898年に母校の講師となる。1902年からイギリスのオックスフォード大学、ドイツのベルリン大学で3年間学ぶ。
帰国後、早稲田大学文学部教授。「早稲田文学」(第二次)を復刊し主宰し、自然主義文学運動の旗手となる。
1906年、坪内逍遥と文芸協会を設立。1909年、協会傘下の演劇研究所において新劇運動を始める。女優・松井須磨子と恋愛関係になり、二人とも辞めて、劇団・芸術座を結成する。1914年、舞台『復活』(トルストイ原作)が」評判をとった。須磨子の劇中歌、「カチューシャかわいや わかれのつらさ」で始まる「カチューシャの唄」が大ヒットした。
1915年、ロシアのウラジオストックを訪問し、ロシア劇団と合同公演を行い大成功をおさめた。
ところが1918年、世界的大流行のパンデミックとなったスペイン風邪に罹患しあっけなく急死してしまった。新劇運動の先駆けの一人であったのだが、47歳の若さでの死であった。その2か月後には、須磨子も自殺している。
100年前の1918年から1920年にかけて猛威をふるったスペイン風邪は、世界で4000万人が死に、日本本土でも45万人、外地で29万人が死んでいる。著名人では、マックス・ヴェーバー(社会学者)、クリムト(画家)、そして日本では島村抱月以外にも、大山捨松(大山巌夫人)、辰野金吾(建築家)、村山槐多(画家)などがいた。病原体が鳥インフルエンザの変異とわかったのは1995年だった。
松井須磨子は1886年生まれで、抱月の15歳年下であった。文芸協会演劇研究所第1期生である。日本初の歌う女優であり、また発禁レコード第1号となった。
抱月と須磨子のセンセーショナルなスキャンダルは、映画、ドラマ、書籍などで多く取り上げられている。
映画では、以下のコンビだった。田中絹代と山村聡。山田五十鈴と土方与志。松坂慶子と蟹江敬三。テレビドラマでは、須磨子を名取裕子、栗原小巻が演じている。書籍では秋田雨雀、渡辺淳一、戸板康二が書いている。
抱月は「人生の中枢意義は、言うまでもなく実行である」と語った行動人であった。抱月と須磨子の立ち上げた新劇は旧派とされた歌舞伎の商業主義を批判し、西洋の翻訳劇を中心に起こった芸術志向の演劇である。二人の死で芸術座が率いる新劇の流れは終わったが、その後は小山内薫らの自由劇場が新劇運動をリードし、関東大震災後の築地小劇場の時代に確立されていく。
抱月・須磨子の志は、道半ば終わっている。続いていれば演劇の世界は違ったものになったかもしれない。まだ今からという47歳の若い死はさぞ無念だっただろう。
山田風太郎『人間臨終図鑑Ⅰ』(徳間文庫)によれば、47歳で亡くなった人は以下の人物があげられている。新島襄。川上音二郎。大正天皇。小山内薫。夢野久作。外国人では、英国のネルソン提督、アラビアのロレンス、ポーランドのコルベ神父、『異邦人』のカミュである。
島村抱月亡き後、新劇運動の先駆者となった10歳年下の小山内薫も、抱月と同じ47歳での死であった。パンデミックは人の運命を変えるだけでなく、歴史も変えていく。