「名言との対話」1月28日。八木秀次「理工系には優秀な学生が来る、だが、高校、大学と6年間も人間学をやらないから、卒業したら文科系の者に負けるのだ」
八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、電気工学、通信工学を専門とする日本の研究者、教育者。享年90。
大阪府大阪市 出身。第三高等学校を経て、東京帝大電気工学科卒業 。仙台高等工業学校教授を経て、ドイツのドレスデン工科大学に留学。帰国後、東北帝大工学部電気工学科教授 。1926年に八木アンテナを発明。指向性超短波空中線方式、高周波光力変調方式など通信工学の分野での業績が大きい。工学部長。
大阪帝大理学部長、東京工業大学学長 、内閣技術院総裁 、大阪大学学長 などの要職を歴任した。1956年文化勲章受章。
松尾博志『電子立国日本を育てた男 八木秀次と独創者たち』(文芸春秋)を読んだ。478ページの大作である。
絶えざる相互評価と厳しいランク付けのある学者の世界の苛烈な競争とそこでの独創者たちの群像が八木秀次という希代の人物を中心に描かれている。終身の学士院会員、文化功労者、文化勲章、ノーベル賞をめぐる人間ドラマが繰り広げられていることがわかった。
八木は二カ所の独創的研究施設を創成した稀有の人だ。東北大(八木アンテナ、陽極分割マグネトロン)と大阪大(理論の湯川秀樹、サイクロトロンを持つ実験の菊池正士を中心とする原子核物理学研究のメッカ)である。阪大での仕事は会心の仕事だったとも回想している。八木は最先端分野を切り拓く優れた研究者であると同時に、プロデューサー型であり、行政職型の学者でもあった。名伯楽だったのだ。
阪大時代に「中間子理論」の湯川秀樹を育てた功績は知られていないが、特筆すべき業績だ。湯川の本籍である小川家は一家で学士院賞3人、文化勲章2人、ノーベル賞1人という珍しい学者一家である。阪大時代、論文を書かない20代の湯川は八木学部長からから叱責され、半年後に書いた初めての論文がノーベル賞という金的に命中する。湯川は量子力学と相対性理論の融合という野心を秘めていたのだ。苦しい日々を湯川は「今日もまた空しかりしと橋の上にきて 立ちどまり落つる日を見る」「疲れても寝ねてもいのちあるかぎり 思いとどまる時はあらなく」と詠んでいる。湯川は世界に知られるような業績を挙げてから外国に行くという決意で研究に励んだのだ。ともにノーベル賞に輝いた朝永振一郎と湯川秀樹は京大の同期生である。明と暗と、快と鬱。名人型の朝永、天才型の湯川。彼らは世界を先導する素粒子論の世界を切り拓いた。
広島と長崎に落とされた原爆搭載機には八木アンテナが装着されていた。敵国が採用していた。それほど八木の独創は優れていた。八木の主眼は独創であった。日本の学問を以下の様に痛罵する。西洋の極東総代理店。西洋学問輸入商。かつぎ屋学者。誰もが知らぬことをやるのが研究、他人がすでに知っていることをやるのが調査。本を書く暇があったら実験しろ。実験結果は永遠、理論には寿命。、、、
戦時中には技術院総裁として日本の科学者のトップに立ち、特攻隊という愚策を批判し、「必死でなく必中の新兵器」を開発しようとしたが間に合わなかった。ラジオで海外の電波を聴いていた八木は敗戦をずっと前から予想していた。八木によれば、日本には科学を培い、科学者を活かすという精神と思想がなかった。道具として使おうとした。それで負けたという見立てであった。
この血沸き肉躍る優れた本の著者である松尾博志は「あとがき」で、「八木の活動は日本の科学者としてはもっとも広範でなないか」と書いている。もともとは湯川と朝永の人間ドラマを書くつもりだったのだが、その過程であらわれる八木秀次という人物に傾斜していったのだ。
八木秀次の言葉の中から、「理工系には優秀な学生が来る、だが、高校、大学と6年間も人間学をやらないから、卒業したら文科系の者に負けるのだ」を採りたい。戦前の旧制高校では「人間学」を学んでいた。しかし戦後はどうだろう。文科系でも人間学は忘れられているのではないか。「人間学の復興」を凋落する日本の再起のエネルギーにしたいものである。