「名言との対話」 3月10日。幣原喜重郎「文明と戦争とは結局両立しえないものである。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになるであろう」
「名言との対話」
幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日〈明治5年8月11日〉- 1951年〈昭和26年〉3月10日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は男爵。
大阪府門真生まれ。帝大法科卒業後、外務省に入省。次官、駐米大使、外務大臣を歴任。戦後1945年首相。1949年衆議院議長。
主力艦保有率について対米英6割を受諾した1922年に終結したワシントン会議全権の幣原喜重郎駐米大使は、1924年に加藤高明内閣の外務大臣に就任し、以降若槻礼次郎、浜口雄幸内閣で外相を歴任し、1931年の満州事変勃発まで、国際協調路線を推進した立役者である。
中国に対しては内政不干渉を貫いた。欧米に対しては1930年のロンドン軍縮会議では補助艦保有率を対米6.975割に抑えた。野党の犬養毅、鳩山一郎、枢密院顧問らは天皇の統帥権干犯問題と攻撃したが、浜口首相とともに努力し、批准にこぎつける。海軍は条約派と艦隊派に割れた。1936年には日本は会議から脱退し、軍縮時代は終わりを告げる。この時代は個人の名前をつけた「幣原外交」と呼ばれた。
1941年の松岡洋右外相の日ソ中立条約調印については、「国際問題に素養も理解もなき民間の喝采を博せんとする外交ほど国家の前途に取って重大なる憂患はない」と非難している。
第二次大戦後、親英米の外交通であるとして首相に就任する。1946年の天皇の人間宣言の発布に関与し天皇制を維持する。新憲法草案作成などをめぐりGHQとの交渉にあたった。
2006年に外務省が日本外交史上大きな足跡を残した人物として「幣原外交の時代」というタイトルで特別展示を行っている。以下、展示資料から。
「1930年1月に開催されたロンドン海軍軍縮条約の締結に際して幣原は、「統帥権干犯」を問われながらも、浜口首相とともに、軍部の圧力に屈することなく条約批准に努めました。」「日華関税協定の締結により中国の関税自主権を認め、また中国の呼称を「支那」から「中華民国」に改めるなど、中国側の要望に理解を示しました」。
国会図書館の憲政資料室には、幣原喜重郎関係文書(幣原平和文庫)があり、日本国憲法制定関係をはじめとして自筆諸論文や書簡、極東軍事裁判広田被告弁護関係、ロンドン軍縮会議、ワシントン会議、幣原・モリス会談、幣原内閣、などの関係資料などがある。
幣原喜重郎は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時代に大きな役割を果たした。そして敗戦後の難局に首相に指名されたときには、天皇の人間宣言、新憲法の制定に関しても関与するなど、大きな構えで仕事をした人物だと思う。
「文明と戦争とは結局両立しえないものである。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになるであろう」。これは憲法改正法案に関する幣原首相の所信表明である。戦争放棄を定めた日本国憲法第9条は幣原の提案と言われている。