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「名言との対話」8月12日。河野裕子「病むまへの身体が欲しい 雨あがりの土の匂ひしてゐた女のからだ」

河野 裕子(かわの ゆうこ、1946年7月24日 - 2010年8月12日)は、日本の歌人。享年64。

熊本県生まれ。滋賀県で育つ。京都女子大国文科卒業。高校時代より短歌を始め、23歳の大学生時に角川短歌賞を受賞。宮柊二に師事。

31歳、現代歌人協会賞。35歳、現代短歌女流賞。38歳、ミューズ女流文学賞。40歳、NHK学園全国短歌大会選者。41歳、コスモス賞。44歳、毎日新聞全国版歌壇選者。51歳、短歌研究賞。52歳、西日本新聞歌壇選者、河野愛子賞。53歳、NHK歌壇選者。55歳、京都府文化功労賞。56歳、紫式部文学賞若山牧水賞。62歳、宮中歌会始詠進歌選者。63歳、斉藤茂吉短歌賞、釈迢空賞、京都市文化功労者。64歳、小野市詩歌文学賞。生前の歌集は17冊。没後3冊。享年64。

息子の歌人・永田淳の『評伝・河野裕子』(白水社)によれば、実像は次のように観察されている。「鮮明な記憶力。物持ちがいい。右顧左眄しない。直球勝負。小中学校の図書室の本を全部読んだ。食卓で作歌、執筆。2Bの三菱鉛筆コクヨの原稿用紙。家族を愛した歌人。物事はなんでも楽しんでしまう。思い込んだら一途にひたむきに実践する。引っ越し一家。なんでも「まるごと」の人。口癖は「あの人はほんまもんや」。友達付き合いをしない。行動力は人並みはずれている」。そして、乳癌がわかったとき、「隠すと言葉が濁る」と言って譲らなかった。

以下、私が感銘を受けた短歌。

 たとえば君、ガサッと落葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか

 わが頬を打ちたるのちにわらわらと泣きたきごとき表情をせり

 誰からも祝福されぬ闇の忌日 あたたかくいのち触れつつ断つ他は無し

 夕闇の桜花の記憶と重なりてはじめて聴きし日の君が血の音

 たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

 日々重くなりゆくいのちか胎動といふ合図もて子は吾を揺りやまぬ

 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらと髪とき眠る

 子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る

 雪の世をほほづきのやうに点しつつあはれ北米の小家族なり

 しっかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合わせ

 ひとつ家に寝起きしてゐし日のことを大切に思ふ日この子にも来む

 町内を同じうすれば時に会ふ鶴見俊輔生協に入る

 昨日見て今日また見たみどり児に会ひにゆくなり傘かたぶけて

 今ならばまっすぐに言ふ夫ならば庇って欲しかった医学書閉じて

 この家に君との時間はどれくらゐ残ってゐるか梁よ答へよ

 櫂たちを悲しみ思ふこえ変わりする頃にわたしは居らず

 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

私の母が歌人であり、妻も影響を受けて歌を作り始めた。その過程で河野裕子と夫の歌人永田和宏のこともよく話題になった。それは壮絶な闘病の歌が中心であった。私も一時短歌を志したが、無理だった。「天気はいいし、飯はうまい、病気もないし、何の不安もない、そんな人は短歌なんかめそめそしたものは作りません」という河野裕子の言に苦笑しながら納得する。

「男は3回脱皮します」「狭い世界だけに閉じこもって汲々とするんじゃなくて、広い世界を目指しなさい」

「歌を詠み合っているから、改めてお互いに話さなくても気持ちがわかる」という河野裕子の夫の永田和弘は、細胞生物学者歌人。『シリーズ 牧水賞の歌人たち 河野裕子』の冒頭の妻が夫を詠んだ歌が面白い。私のことを詠んでいるような気もする。

「先に死ねばやはりこの人は困るだろう金ではなくて朝のパン夕べの飯に」「このひとはだんだん子供のやうになるパンツ一枚で西瓜食ひゐる」

今回改めて河野裕子の生涯と生み出された短歌を眺める機会を得たのだが、河野裕子は人を鼓舞し、多くの人を育て、大勢の人の記憶に残り、暗誦される歌を数多く残した人である。歌を詠むことは生きることそのものであり、歌を残すことは人生を残すことなのだ。この人が病魔に冒されずに、100年の人生があったら、どのような歌を作っただろうか、と空想する。


評伝・河野裕子

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