「名言との対話」6月8日。窪田空穂「かりそめの感と思はず今日を在る我の命の頂点なるを」
窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人、国文学者。
長野県松本市出身。東京専門学校(早稲田大学)卒。1919年に早稲田大学講師となり、後に教授。文芸の幅広い分野の実作と研究に大きな功績を残した。
短歌では、与謝野鉄幹の「明星」を経て、『国民文学』を創刊し、「アララギ」と並ぶ一大勢力を形成した。自然主義から日常詠も詠み「境涯詠」と呼ばれる家風となった。朝日歌壇選者。生涯で歌集を23冊刊行している。
また小説も発表している。国文学では、「万葉集」「古今集」「新古今集」の全評釈を行った。文化功労者。
『窪田空穂名作全集』(日本文学研究会)を手に取った。「遺愛集」と題したエッセイが目についた。巣鴨刑務所で死刑囚として服役する島秋人という歌人との交流を描いている。毎日歌壇の選者と投稿者との関係しかないが、島秋人は自らの歌集「遺愛集」に序を頼まれる。遺愛とは「生前愛した物で、死後に遺す物という意味であろう」とし「わが作歌こそ我が生命であるとの意」と受け止めている。数百の歌を読み込んでいる。島秋人の歌には心境のくり返しがなく、洗練と気品があると感嘆している。このエッセイでは最後に「島秋人は私に悲しむべき人なのである。しかし悲しみのない人はいない。異例な人として悲しいのである」と結んでいる。歌を詠む死刑囚との交流は、窪田の人柄の気高さを感じる。
『校註 小野小町集 補訂版』では、中流貴族階級の女性に共通している自由な恋愛生活を送った女性としてとらえ、解説をしている。奔放な性生活を送った小町があげている5人の男の一人は在原業平だったことを私は初めてしった。「花の色は移りにけりな徒らにわが身世にふるながめせし間に」「わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらば住なむとぞ」などの歌がある当時歌人として高名だった小町の名が歴史に残ったのは、「古今集」を編んだ紀貫之が六歌仙の一人に推奨したからだという。小町は万葉風の古風と古今集の新風にもつながっているとの評価であった。
窪田空穂の歌をあげてみたい。
「麦のくき口に含みて吹きおればふと鳴りいでし心うれしき」
「鉦鳴らし信濃の国を行き行かば ありしながらの母見るらむか」
「麦、、」は私にもあった少年時代を思い出す、心が暖まる一首だ。「鉦鳴らし、、」は、12歳で亡くした愛する母を思う歌であり、1年前に母を亡くした私も共感を覚える歌である。
数えで89歳の時の歌がある。「かりそめの感と思はず今日を在る我の命の頂点なるを」 90歳まじかの年齢で、今日は「命の頂点」であると詠じたことに感動する。人生の坂を登り続けたこの人の、何歳になろうと「頂点」にあったという気概を見習いたいものだ。
91歳の絶詠は 「まつはただ意志あるのみの今日なれど眼つぶればまぶたの重し」である。この歌は前から用意しておいた辞世の歌ではない。最後の最後まで、心境を歌に託すとしていたことにも感心する。
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