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「名言との対話」10月15日。大井憲太郎「人存すれば、すなわち自由あり、自由滅せれば、すなわち死す」

大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(1843年 9月3日) - 大正11年(1922年)10月15日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家

大分県宇佐市出身。漢学を学んだ後、長崎で蘭学、英学を学ぶ。江戸に出て、仏学、化学を学ぶ。維新後は、大学南校に入学。民選議院設立をめぐり、加藤弘之と論争し名を挙げた。元老院少書記官となるが免官。愛国社創立に参画し、弁護士として活動する。

自由党に参加、秩父困民党を指導。そして1885年には、朝鮮の内政改革を企て、大阪事件を起こし逮捕される。出獄後は、立憲自由党を結成。1894年には第3回衆議院議員選挙に大阪から立候補し当選する。日本はアジア革新の指導者となるべきだというのが大井の主張であった。

1899年には片山潜らと普通選挙期成同盟を結成する。大井憲太郎は、終始対外強硬論者として活動した。大井は正教徒であり、埋葬はニコライ堂で行われた。

因みに、宇佐市には、大横綱双葉山主婦の友創業者の石川武美などが出ている。また、疏水事業の父と呼ばれる南一郎平、石橋をつくる専門家の松田新之助本草学者の加来飛霞、大砲製造の加来惟熊がいる。

さて、大井憲太郎である。こういった経歴から見えるように、まことに血の気の多い人物であった。それは私生活にも影響しているようだ。

大井には妻がいたが、福田英子と内縁関係を持ち、男子をもうけている。この福田英子は傑物であった。婦人解放運動の先駆けとして知られ、「東洋のジャンヌダルク」と称された人だ。彼女は、大井と別れた後、女子実業学校などを設立している。平民社に参加し、社会主義運動に身を投じた。月刊新聞「世界婦人」を発刊して主筆となっている。

福田英子「妾の半生涯」では、大井は次のように罵倒されている。

「実に、私の半生を不幸不運の淵に沈めた導火線であった」「私の終生の誤りであったことだ」「彼は全く変心したのである。彼は私の帰国中に私の親友であった清水富美子と情を通じて、私を遠ざけようと謀ったのである」「ああ、このようなものを信頼したことこそ過ちであったのだなあ」

正教徒であり、東京弁護士会の会長を長く務めた、自由民権運動の先駆者もかたなしだ。「人存すれば、すなわち自由あり、自由滅せれば、すなわち死す」という言葉も空しく響く感もあるが、私生活はともかく、公的生活では、時代を牽引した人なのだろう。宇佐市院内町役場には、明治100年記念事業で建てた像がある。


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