見出し画像

「名言との対話」6月16日。平岡円四郎「この先日本は武張った石頭だけでは成り立たない」「お前(渋沢栄一)はお前のまま生き抜け、必ずだ」

平岡 円四郎(ひらおか えんしろう、1822年11月20日文政5年10月7日〉- 1864年7月19日元治元年6月16日〉)は、幕末日本武士一橋家家臣・家老として後の徳川慶喜に仕えた。

16歳、旗本・平岡文次郎の養子となる。昌平坂学問所の寄宿中頭取(寮長)をつとめる。

後の徳川慶喜が一橋家に入った際、父親の徳川斉昭慶喜に過失があたっときにいさめる役割の臣下が必要と考え、藤田東湖に人選を依頼した。平岡の才能を認めていた川路聖謨藤田東湖から推薦され、仕えることとなった。

徳川慶喜の前半生は、この平岡が右腕となって支えた。将軍継嗣問題での慶喜擁立運動、将軍後見職時代の改革、朝廷参与時代の薩摩藩との暗闘、禁裏守衛総督への就任などで辣腕をふるった。歴史に登場するのはわずか6年であったか。

「天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川に在り」と評されたほどの手腕を持つ人物だった。因みに「平岡・黒川」と並び称された黒川嘉兵衛(1815-1885年)は、黒船で密航を企てた吉田松陰下田奉行として尋問した人物である。

NHK大河ドラマ「青天を衝け」でその存在を知った。堤真一の演技が記憶に新しい。その番組の説明か以下の通り。

べらんめえ口調の江戸っ子で、「おかしれえ」が口癖。一を聞けば十を知り、先の世を見通せる才覚を持つ。定職につかずにぶらぶらして暮らしていたが、慶喜の小姓に抜擢され、その純朴な性格が慶喜に気に入られる。攘夷に傾倒していた渋沢栄一と喜作を見込み、幕府に素性を知られ進退窮まる2人を慶喜に目通りさせ、一橋家の家臣に取り立てる。

平岡は栄一の武士らしくない金勘定の才能を評価しており、「この先日本は武張った石頭だけでは成り立たない」「お前はお前のまま生き抜け、必ずだ」と助言し、彼の人生に大きな影響を与えた。

慶喜の上洛に伴い近江守に任官され、慶喜の作る新しい世を望み尽未来際仕えると誓う。しかしその矢先、慶喜をそそのかしたと見なした水戸藩士に襲撃されて致命傷を負う。死の間際、「俺はまだ死にたくない…」という無念の思いと、妻・やすの名を呟きながら息絶える。

平岡に見出された渋沢栄一は「一を聴いて十を知るという質」「余りに前途が見え過ぎて」、非業の死を遂げたとしている。

平岡円四郎については資料が少ない。「徳川慶喜回顧録」などに名前が出てくる。慶喜自身の回想やしぶさわ栄一の回想の中にでてくる平岡像を追う。

  • 始終御相談相手になった者がございましょうか。公 家来でか。井野邊 さようでございます 公 それは平岡圓四郎・黒川嘉兵衛、それからその後に原市之進、まずそのくらい(徳川慶喜公回想談)

  • 八月=百、父斉昭に書を送り、将軍継嗣に擬せられたという風聞の差止めを請う。=一月一三日、平岡円四郎を小姓とする。
    徳川慶喜公回想談)

  • 水戸藩武田耕雲斎ら、筑波 山に挙兵(天狗党の乱)。・五月二〇日、将軍家茂、江戸に帰る。・六月一六日、平岡円四郎暗殺される。・七月一九日、蛤御門の変起る。(徳川慶喜回想談)

  • 無理もないことであった。 川路や岩瀬などが一橋卿に事を申し上げる時に、これを取りついだのは、その侍臣の平岡円四郎で、昌平欝の学友の間柄であった。(幕末外交談)

  • 決行し高崎城を攻略せんと計画したが、従兄尾高長七郎の説得により中止した。元治元年(一八六四)二月、平岡円四郎の推薦により一橋家の家臣となり、(渋沢栄一

渋沢栄一は、幕府に追われる立場となるが、江戸慶喜の側近・平岡円四郎に出会い、一橋家の家臣に誘われる。幕府に捕らわれて死ぬか、一橋の家臣となるか。「生き延びればいつか志を貫ける」。この選択が、栄一の運命を変えていく。

平岡円四郎は、渋沢を見出しただけでなく、財政分野に才能があると見抜き、「この先日本は武張った石頭だけでは成り立たない」「お前はお前のまま生き抜け、必ずだ」と諭している。この言葉が、渋沢栄一をつくり、その渋沢が日本の資本主義をつくったのだから、その功績は大なるものがある。平岡円四郎は知られざる偉人である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?