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「名言との対話」12月1日。志村正順「アナウンサーは職人であるから、権力や出世を目指してはいけない」

志村 正順(しむら せいじゅん 本名:表記同じく「しむら まさより」、1913年10月2日 - 2007年12月1日)は、日本の昭和時代に活動したアナウンサー。享年94。

NHKで主に大相撲プロ野球等のスポーツ実況中継を担当した名アナウンサーである。主なものをだけでも、明治神宮外苑陸上競技場で挙行された学徒出陣壮行会、マッカーサー元帥離日中継。NHK開局第一声となるアナウンス、ボクシングの白井義男エスピノザ戦、プロレスの力道山シャープ兄弟戦、長島がホームランを打った天覧試合、、、。ラジオ時代からテレビの曙の時代を、多くの国民は志村アナウンサーとともに生きた。戦後は放送の民主化が行われて誕生した「話の泉」「二十の扉」、また「アメリカ便り」も人気があった。通信文が遅れると下読みなしでマイクに向かうことになるのだが、問題なくこなす。そのコツは「右の目で読みながら、左の目で三行先を追う」だった。

志村の技を表す言葉は、 「スポーツの語り部」、「声の軽機関銃」、「デパート式アナウンサー」、「お祭りポンタ」、などがある。スポーツ界のあらゆる種目をこなしたが、もっとも有名なのは、相撲と野球だ。

相撲の名解説者・神風を世に送り出した。志村は相撲の取り組み中に解説者に二言、三言しゃべってもらうという新しい形式を発明した。後に神風はNHK放送文化賞を受賞している。実況放送で重要なことは、三度繰り返すことだという。「さあ立った、さあ立った、さあ立った。吊りだし栃錦の勝ち」という具合だ。

「えーぇ、何と申しましょうか」で有名な、プロ野球解説者の小西得郎の味わい深い名解説は一世を風靡した。志村には即時描写の能力があり、「サーカスプレー!」「鉄砲肩ァ!」「韋駄天も及ばない」「手を入れると青く染まりそうな空」など詩的で豊富な表現力を持ち合わせていた。

ラジオ全盛時代は、「和田ー志村時代」と呼ぶ人もいる。格調の高い調子の和田信賢は志村が師事した名アナウンサーだ。和田の業績を記念してNHKが創設した「和田賞」の第一回受賞者は軽快さと自由自在の志村だった。

日本相撲協会からも長年の功績を認められている。「相撲放送は志村をもって嚆矢とし、志村をもって終焉す」だ。野球では、史上初の放送関係者の野球殿堂入りを果たしている。

神風との相撲、小西得郎との野球の名コンビは当時の誰でも知っていた。子ども時代の私も志村の解説を興奮しながら聞いたものだ。解説者の特徴をよくつかんで聞かせどころをうまく引き出すアナウンサーだった。解説者は馬で、アナウンサーは馬子であるという名言も吐いている。

ラジオはアナウンサーの一人天下だが、チームワーク重視のテレビには向かない。沈黙の苦痛が強いられる。 テレビオリンピックの東京オリンピック、そして衛星放送の登場は、志村時代を過去のものとしていく。志村は76歳で再婚する。妻は60歳であった。

「双葉破る!双葉破る!双葉破る!時に昭和14年1月15日、、、」と絶叫した和田信賢志村正順以降は、八木治郎、高橋恵三、宮田輝小川宏、志村の薫陶を受けた木島則夫、「最後の職人アナウンサー」鈴木健二、、、などが思い浮かぶ。木島則夫に対しては、懸命に取り組んだ教養番組「生活の知恵」をやめることになったとき、志村部長は「君の責任は終わったのだ。済んだことだと思ってあきらめなさい」と諭している。引き際を知っていたのだ。

「アナウンサーは職人であるから、権力や出世を目指してはいけない」という人生観で、出世を拒否しようとする態度は一貫している。志村はNHK初の専属アナウンサーだった。「ラジオの父」という異称もある。現場が好きな職人アナウンサーであった。



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