「名言との対話」5月25日。石井菊次郎「ドイツは最も悪しき同盟国であり、ドイツと絡んだ国はすべて不慮の災難を被っている」
石井 菊次郎(いしい きくじろう、慶応2年3月10日(1866年4月24日)- 昭和20年(1945年)5月25日?)は、日本の外交官、政治家。
千葉県出身。帝国大学法科大学卒業後、1891年外務省に入りる。通商局長、次官、駐仏大使を歴任後、1915年に第二次大隈重信内閣の外相に就任、次官は幣原喜重郎であった。日露協約の締結に尽力。1917年アメリカ特派大使として石井‐ランシング協定を結ぶ。1920年駐仏大使となり、ベルサイユ体制下の国際会議で平和条約実施委員長、国際連盟日本代表、同議長、ジュネーブ軍縮会議日本代表などを務め、1927年退官。1929年より枢密顧問官、1933年世界経済会議日本代表を務める。男爵、子爵。1945年5月の東京山手の空襲の際に行方不明となる。
石井菊次郎は、「石井‐ランシング協定」に名をとどめている。それは特派大使の石井とアメリカのランシング国務長官との共同宣言である。アメリカは日本の中国、とくに満蒙に特殊な利益を有することを承認する、日米両国は中国の領土保全、門戸開放、商工業に対する機会均等主義を支持する、というもので日本に有利な協定だった。しかし中国の抗議とアメリカとの解釈の相違で、この協定は1923年に廃棄されている。
石井菊次郎の死亡日は明確ではない。1945年5月25日から26日にかけて東京山手の米軍による大空襲にさらされた。この空襲によって、石井は行方不明となったのである。それ以前の空襲と合わせ、東京の市街地の50.8%が焼失している。ここでは25日とする。
石井菊次郎はドイツのヒトラーに対し不信感を持っていた。枢密院本会議では、利害関係の一致から日独同盟には賛成するが、「ドイツは最も悪しき同盟国であり、ドイツと絡んだ国はすべて不慮の災難を被っている」と述べ、注意を喚起している。
実際には石井菊次郎の懸念通りの展開となって、日本はドイツとともに敗戦を迎える。こういう外交官がいたことを知らなかった。戦後は、6つ年下の幣原喜重郎、12ほど年下の吉田茂らの外務省の後輩たちに志が引き継がれた。