「名言との対話」10月28日。東富士欽壹「命に関わっても文句は言わぬ」
東富士 欽壹(あずまふじ きんいち、1921年10月28日 - 1973年7月31日)は、大相撲力士・第40代横綱・元プロレスラー・実業家。
東京市下谷区(現・東京都台東区)生まれ。
幕下時代は双葉山に猛稽古をつけられ可愛がられた。前頭筆頭のとき横綱・双葉山の露払いをつとめた。新関脇で初めて対戦した双葉山に勝ち恩返しがなる。双葉山はこの一番で引退している。
最古参の横綱となり力士会の会長に就任した東富士は、「キン坊」と呼ばれたかつての双葉山の時津風理事長にだけは弱かったそうだ。
引退後、錦戸を襲名したが一門の派閥争いに巻き込まれる。時津風理事長も解決に奔走したが、廃業する結果になり、引退相撲も叶わなかった。
1951年には急性肺炎による高熱が続き、「こんな病身で相撲なんかとって死んでも知らぬ」と医師がとめたときに、東富士は「命に関わっても文句は言わぬ」との誓約書を書いた。その日の取り組みでは物言いのとり直し、水入り後の勝敗にまた物言いとなった。協議の結果勝負預かりとなった。気迫、気合の力士だった。
最晩年は4横綱時代だったが、大関・栃錦が連続優勝すれば前例のない5横綱時代となり、栃錦の昇進が見送られることを避けるため、14日目に自ら引退を申し出ている。いずれも「江戸っ子横綱」といわれて、人気があったこともよくわかるエピソードだ。
4度目の優勝時には、力道山のオープンカーで個人的に優勝パレードしている。その後、優勝パレードは相撲協会の公式行事になった。
廃業後は、力道山に誘われてプロレスラーになり活躍する。私はこのプロレスラー時代にはテレビでの戦いをみていたのでよく知っている。当時は横綱までつとめた力士だったことは知らなかった。その後、横綱からプロレスに転向したのは、輪島、双羽黒、曙がいる。その後、東富士はテレビの解説者や、事業も行っている。
東富士は他の人や自分自身についての「出処進退」にエピソードが多い人だったことがわかる。時津風理事長が人柄を惜しんだことにも納得する。
ところで、四股名である。富士ヶ根部屋では、伝統的に「富士」をつける。「冨士東」になる予定だったが期待が大きく、逆に富士の前に東がつく四股名となった。この伝統は、富士ヶ根部屋を吸収した高砂部屋にも継承されている。
富士がついた四股名について調べてみた。もともとは醜名と書く。「みにくい」という意味ではなく、「逞しい」という意味である。自然、郷里、母校、タニマチなどに由来する四股名が多い。例えば、山、川、海、花、風、嵐、、。この中でも日本一の富士山に因んだ「富士」の多さも目立つ。現在では横綱・照ノ富士がいる。
横綱をはった力士の中で「富士」がついた人は、東富士、北の富士、千代の富士、旭富士、日馬富士、照ノ富士がいる。東富士が最初の富士がついた横綱だ。
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