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「名言との対話」2月11日。サイデンステッカー「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ(川端康成)」

エドワード・ジョージ・サイデンステッカー(Edward George Seidensticker, 1921年2月11日 - 2007年8月26日)は、日本文学作品の翻訳を通して、日本の文化を広く紹介したアメリカ人の日本学者、翻訳家。

アメリカ・コロラド州の農家に生まれ、コロラド大学で経済学、英文学を学ぶ。海軍日本語学校で日本語を学んだ後、第二次世界大戦に出征し、硫黄島作戦に参加。日本に進駐し、帰国後コロンビア大学で公法及び行政学の修士号を取得。テーマは「近衛文麿日記」。

1948年、国務省に入り連合軍外交部局の一員として再来日。1950年退官し、東大にて日本文学を研究する。1962年に帰国し、スタンフォード大学、のちコロンビア大学にて教授として日本文学を講じた。

サイデンステッカーは1950年代から谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫らの現代文学を英訳した。1つ年上のドナルド・キーンと親しい。どちらもアメリカ海軍の日本語学校で学び、進駐軍の一員として日本に駐在している。二人は同志的関係にあった。上野界のとんかつの老舗「ぽん太」で会食していた。

2006年に日本永住を決意し、東京湯島で暮らしたが、翌年不忍池を散歩中に転倒して頭部を強打し84歳で亡くなった。カトリックであったが、比較的教義の似通った浄土真宗に興味があり、「墓は浄土真宗で」と言っていたというエピソードがあるとおり、東京都文京区白山の寂園寺(浄土真宗)に墓がある。親鸞の書の「寂」と刻された碑の下に納骨されている。サイデンステッカーは「どの国においても、墓地は美しい」と書いていた。

著書は、専門の日本文学の翻訳以外にも、『現代日本作家論』『湯島の宿にて』『東京 下町山の手』『流れゆく日々 サイデンステッカー自伝』など多数ある。これを機会にエッセイも読んでみたい。

1971年の『山の音』の翻訳による全米図書賞翻訳部門受賞から、日本でも文部大臣表彰、勲三等旭日中綬章受章、「源氏物語」の全訳による]菊池寛賞、五島美代子賞、東京都文化賞、1991年の山片蟠桃賞まで多くの受賞がある。同志のドナルド・キーンは文化功労者、そして文化勲章をもらうという栄典に浴し、新潟県柏崎市にキーンの業績を紹介する記念館「ドナルド・キーン・センター柏崎」があるのと比べるとやや不遇な感じもする。キーンが96歳まで生きたこととも関係があるのだろうか。 死後、勤務したことのある長崎県佐世保に近い伊万里の市民図書館にサイデンステッカーの500点の遺品が寄贈されている、

川端の『雪国』の翻訳は日本初のノーベル文学賞受賞に多大の寄与をなしたといわれている。サイデンステッカーは川端の要請でノーベル賞の授賞式にも参加し、川端は受賞は歳でステッカーの翻訳の素晴らしさに大きく負っていると感謝し、「私が戴いたノーベル賞の賞金の半分はあなたが受け取るべきです」と賞金の半分をサイデンステッカーに渡している。このエピソードは初めて知った。


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