「名言との対話」12月7日。佐野常民「博愛これを仁という。仁とは人をいつくしむこと」
佐野 常民(さの つねたみ、1823年2月8日(文政5年12月28日) - 1902年(明治35年)12月7日)は、明治期の政治家。享年79。
佐野常民は1822年生まれで34年生まれの江藤新平、38年生まれの大隈重信らとはひとまわり以上の年齢差がある。実家は下村といい、藩医の佐野家に養子に出ている。この下村家は、作家下村湖人や高度成長の理論的指導者下村治を生んだ家である。
藩校講道館で学び、日本各地で華岡青洲、緒方洪庵、伊東玄朴らに蘭学を習う。31歳で佐賀藩精錬方(理化学実験場)の頭人となり、36歳で幕末随一とうたわれた科学技術の粋を集めた三重津海軍所の責任者になり、国産初の蒸気船である凌風丸を完成させる。ここではオランダやイギリスから購入した甲子丸以下13隻の軍艦を保有する。後に政府に寄付するが、現在の価値では8000億円にのぼる。
佐野常民は1867年のパリ万博では佐賀藩を率いて参加している。そこで赤十字のアンリ・デュナンとの運命的な出会いをする。新政府では工部省大丞、灯台頭などもつとめた。日本海軍の創設、イギリス式兵制の採用、洋式灯台建設の推進などの功績がある。1873年のウイーン万博では多数の技術者を率いてわたり、膨大な報告書を提出し、それが日本近代化の指針となった。1880年には大蔵卿に任ぜられ財政再建に力を尽くす。
1887年からの西南戦争では敵味方の差別なく手当てをする救護組織の必要性を訴え、「博愛社設立請願書」を政府に提出する。戦場となった熊本で政府軍総指揮官有栖宮に直接嘆願し即日許可を受け、日本赤十字社が創設された。55歳の常民は以降25年間社長の職にあって、看護教育などに力を入れる。
1895年に京都で博覧会が開かれたときにも、活躍する。佐野常民は「博覧会男」とも言われていた。また日本美術協会会頭をつとめるなど芸術面でも足跡を残している。そして農商務大臣や医師会の会長もつとめているなど佐野常民はマルチ人間でもあった。
私は2006年に佐賀空港のある川副町の佐野常民記念館を訪問した。佐野常民は日本赤十字の初代社長ということしか知らなかったが、実際に訪問してみるとそのイメージはすっかりひっくりかえってしまった。大蔵大臣、農商務大臣、日本赤十字社初代社長、日本美術協会会頭、そして1867年のパリ万国博の団長をつとめて以来すべての博覧会にかかわるというマルチ人間だった。
館長の郷土史家・福岡博先生自らご案内いただき、佐賀藩の明治における存在感や、佐野常民の偉業に目が開かれる思いがした。船の形と赤十字の文様を凝らした記念館は、ハード、ソフトともよく磨きこまれている全国区の記念館という印象である。
町議会で町民向けの温泉施設か記念館をつくるかで2票差で建築が決まったというこの記念館は、2004年10月にオープンした。日本海軍発祥の地に建っており、佐賀藩がつくった日本最初の蒸気船凌風丸も早津江川に面した公園内に保存されている。正規職員2人、ボランティア50人で運営されているこの記念館は、朝9時から午後8時まで開いているという珍しい記念館だ。建物に15億円、公園に3億円かけているから、施設は充実している。年間運営費は5000万円。案内やお茶出しなどはボランティアが担当している。記念館と川の間に造営した公園では凌風丸と同じ模型を展示してあり、子供たちが遊んでいる。この川も立派な川で、有明海の潮の影響で6メートルの上下がある。川、公園、記念館のこの配置はなかなか美しく、記念館の価値をさらに高めている。
佐野常民は日本赤十字との縁が深いこともあり、赤十字はこの館の運営にも大いに協力をしている。記念館は船の形をしていること、そしてブルーを基調として壁には十字の形がデザインされている。
館長によれば、「佐賀県人の歩いた後は草も生えない」とよく言われるが、佐賀県人は科学的で合理的であり、徹底的に勉強しつくしてしまうので、後には研究するテーマが残らない、それほど佐賀県人は優れている、という意味だそうで、講演依頼先の同行した佐賀県商工連合会の人たちもびっくりしていた。
佐賀藩のつくった大砲を長崎藩に貸して、ロシアのプチャーチンが来た時に、1500mの距離で15発中12発芽命中して敵は驚いて帰っていった。また佐賀藩のアームストロング砲2門で上野の彰義隊を壊滅させてその威力に明治政府が感謝している。種痘は佐賀藩(36万石。全国8位の石高)が日本で一番早く実施している。
大蔵卿が大隈重信、司法卿が江藤新平、文部卿が大木喬任、外務卿が副島種臣など、明治政府の閣僚9人のうち4人までが佐賀県人だったこともある。
日本が府県性になったとき、豊前・豊後が大分県、筑前・筑後が福岡県などは2つの藩が1県になったが、長崎県を二つに分割してその一つの肥前が佐賀県になったなど、維新に功績のあった佐賀県は優遇されている。
佐賀藩は国際感覚に優れていた。長崎の警固は福岡藩と佐賀藩が交代して行っていたが、ペリー来航の45年前の1808年に英国船フェートン号事件が起こり藩主は切腹している。このときから朱子学から洋学に力を入れて、全藩の教育に力を入れた。これが今も教育県といわれるもとになっていて、国際感覚が優れていた原因となった。ちなみに佐賀藩は明治維新では一人の死者も出していないから優れた政治感覚といってよいだろう。その列強藩を育成した佐賀藩第10代藩主鍋島直正が傑物で、科学・技術に力を入れて、幕末の時点では軍事力は恐るべきものだった。しかし、佐賀藩は二重鎖国制度といわれるほど、そういった情報をもらさなかった。明治政府をつくったのは「薩長土肥」という。肥前がなぜ入っているかがようやく理解できた。
幕末から明治の時代に、政治・産業・科学・芸術の分野で先進的な活動を展開した佐野常民は想像以上の巨人であった。その常民は、「博愛これを仁という。仁とは人をいつくしむこと」という言葉を残している。看護にあたる者へは「凡そ看護者は慈仁恵愛の心を基となし患者の不幸を憐み 苟くも病者に益ある所は、細大となく躬を忘れて之を行い、懇篤深切なること猶お慈母の愛兒に於けるが如くなる可し」としている。
鍋島直正、大隈重信、江藤新平、大木高任、そして万能の人であった副島種臣らの佐賀人を生んだ風土も興味深い。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?