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「名言との対話」1月3日。高垣忠一郎「自己肯定感は愛でふくらむ浮袋」
高垣 忠一郎(たかがき ちゅういちろう、1944年3月7日 - 2024年1月3日)は、日本の臨床心理学者。享年79。
高知市出身。京都大学教育学部卒。大学院博士課程を経て助手。その後、1976年に大阪電気通信大学助教教授、教授。1995年、立命館大学教授。2014年に退職。
著書は、「登校拒否」をテーマとしたものが多い。いじめ、ひきこもりなどの思春期の子どもを応援している。今日では市民権を持った「自己肯定感」の提唱者といわれる。
1991年には「自分が自分であって大丈夫」という後の「自己肯定感」の枕詞を使った。1994年に書籍の中で枕詞とともに「自己肯定感」を使った。2004年に「生きることと自己肯定感」という書名に使った。登校拒否、不登校問題全国連絡会世話人代表としても活躍した。
その後も、「自己肯定感」という言葉を用いて、具体性を展開し、このあ概念が広がることに大きな貢献をした。
2018年刊行の『自己肯定感を抱きしめて 命はかくも愛おしい』(新日本出版社)を読んだ。
「自己肯定感はいのちに備わっている「浮袋」のようなものだ、生きづらさの海で溺れる人に投げられた浮袋。「愛の息吹」をいっぱい吹き込まれてふくらむ浮袋だ。
自己肯定感を高めるのではなく、「共感とゆるし」である愛を吹き込まれるとふくらむものなのだ。
カウンセラーの仕事。「月は太陽の光の届かない暗い夜の世界に、その光を反射する鏡になって光を送り届ける。それがカウンセラーの仕事だ。」
「一人ひとりが自分と一体の違う世界を生きている。」
葉っぱのフレディのことが語られている。ーー大きな楓(「楓)の木についている何千枚の葉っぱがついている。一人ひとりはたたった1年しか生きることができない葉っぱのいのちを生きているのではなく、楓の木といういのちそのものなのだ。
アメリカ人のレオ・バスカーリアの作品を翻訳した絵本を日野原阿重明先生が劇にした「葉っぱのフレディーーーいのちの旅」ではないか。
「大きな木の太い枝に生まれた、葉っぱのフレディのおはなし。春に生まれたフレディは、数えきれないほどの葉っぱにとりまかれていました。はじめは、葉っぱはどれも自分と同じ形をしていると思っていましたが、やがてひとつとして同じ葉っぱはないことに気がつきます。フレディは親友で物知りのダニエルから、いろいろなことを教わります。自分達が木の葉っぱだということ、めぐりめぐる季節のこと...フレディは夏の間、気持ちよく、楽しく過ごしました。遅くまで遊んだり、人間のために涼しい木陰をつくってあげたり。秋が来ると、緑色の葉っぱたちは一気に紅葉しました。みなそれぞれ違う色に色づいていきます。そして冬。とうとう葉っぱが死ぬときがきます。死ぬとはどういうことなのか...ダニエルはフレディに、いのちについて説きます。「いつかは死ぬさ。でも”いのち”は永遠に生きているのだよ。」フレディは自分が生きてきた意味について考えます。「ねえダニエル。ぼくは生まれてきてよかったのだろうか。」そして最後の葉っぱとなったフレディは、地面に降り、ねむりにつきます。」
葉っぱのフレディは、大きな楓の木のいのちのそのものである。その楓の木は森のいのちであり、地球のいのちであり、大気であり、そして宇宙といういのちなのである。
仏教のいう「宇宙」にはひとつのいのちがあるだけだ。「阿弥陀仏」という「無量寿」の大きないのち」である。葉っぱのフレディは一人の人間のことだ。仏教世界でも、キリスト教世界でも、「いのち」についての考えは同じだったのだ。
ライフという言葉を、今まで「生活、人生、生命」という3つの連鎖であらわしてきた。「生命」とは子孫と解釈してきたのだが、実はそれは宇宙、阿弥陀仏という大きな「いのち」なのであった。日々の「生活」が、長い「人生」を形作っている。それは宇宙という大きな「いのち」(生命)そのものを生きているということになる。私にとっては、大きな発見だった。
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