「名言との対話」6月15日。大鳥圭介「死のうと思えば、いつでも死ねる。今は降伏と洒落込もうではないか」「なに降伏したつて殺されやしない」
大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日(1833年4月14日) - 明治44年(1911年)6月15日)は、江戸時代は幕臣(歩兵奉行、幕府伝習隊 長、陸軍奉行)、医師、蘭学者、 軍事学者、工学者、思想家、 発明家。 明治時代は教育者(工部美術学校校長、工部大学校校長、学習院第3代院長、華族女学校校長)、政治家、外交官、 官吏。 位階勲等は正二位勲一等男爵。享年78。
大鳥圭介の経歴をながめると驚きを覚える。幕末は幕臣として活躍し、維新後は新政府の要職を渡り歩き、実績をあげている。その範囲の広さは、驚きである。
函館新政府は、近代的で選挙によって組閣を行っている。この政府は新しい国をつくろうとし、外交も行っている。この開明な国が続いていたら日本史も変わっていただろう。投票の結果、総裁は榎本武揚、大鳥圭介は陸軍奉行。そして陸軍奉行並は土方歳三となった。3人のうち、戦死は新選組出身の土方のみで、榎本と大鳥は降伏し獄につながれる。大鳥は自身が過去につくった牢獄で、牢名主制度を廃止させている。長州は厳罰を主張するが、彼らと戦った薩摩の黒田清隆は、この二人の人物と才能を新政府で活用する。
2歳年下の土方歳三は戦死したが、3歳年下の榎本武揚は新政府で、通信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任し、子爵となっている。この3人はそれぞれ傑物だった。新選組の土方は小説の主人公になるなど有名になった。榎本の活躍もかくかくたるものであり、こちらもよく知られている。大鳥圭介は、この二人ほど名前と功績は知られていいないが、相当の人物だったことが今回わかった。
文芸も愛し、漢詩も残っている。以下、訳。如風は、大鳥の号。
雲に覆われていた山村は、晴れるにつれて緑色に照り輝こうとしている。田んぼという田んぼには、水が漲り、稲の苗がうずたかく積まれて田植えを待っている。家の周りで鳴く蛙の声は、まるで沸きあがるようだ。一陣のそよ風が、雨を吹きあげる。
夏の田舎の家での夕暮れ 如楓散人
安政大地震では「なくすものがないから怖いものはない」と泰然としていた。五稜郭の戦いでは「死のうと思えば、いつでも死ねる。今は降伏と洒落込もうではないか」「なに降伏したつて殺されやしない」と語り、皆の命を救っている。
大鳥圭介は、前半は幕臣として、後半は新政府の高官として、国家のために粉骨砕身した人物だ。型にはまらない、自由な考えの持ち主であった。例えば、金属活字(大鳥活字)、翻訳書を刊行。また日本初の温度計も政策するなどの発明も多い。何でもできた人であり興味を持った。この人を知ったのは収穫だった。星亮一『大鳥圭介』(中公新書)、伊東潤『死んでたまるか』(新潮社)がある。読みたい。出身地の兵庫県赤穂の生家はミニ資料館となっている。訪ねたい。