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「名言との対話」4月21日。玉利喜造「除虫菊。大丈夫。べと病。養蜂改良説」

玉利 喜造(たまり きぞう、1856年5月28日安政3年4月25日) - 1931年昭和6年)4月21日)は、日本農学者。享年74。

鹿児島市出身。駒場農学校の卒業式で、農学科の優等第一として、農学士の学位を受け、代表として答辞を読んだ。その後、農学校の助教授となる、。1885年にアメリカにわたり、ミシガン州立農学校、イリノイ州立大学で学ぶ。1887年に帰国し、帝国大学農科大学助教授、教授を歴任し、園芸と畜産を講義した。

1885年のアメリカ出張時にカリフォルニアから持ち帰り、除虫菊を栽培。

1888年、キュウリの新しい病気をの病原菌を発見し、べと病と命名

1889年、アメリカからネーブル・オレンジを栽培。

玉利は日本初の人工交配を試みた農学者である。ワタ・大豆などの交配。大麦の「大丈夫」などの育成。そして雑種交配で強勢になることを発見し、品種改良への道を拓いている。

園芸学、畜産学、植物病理学と幅広い分野で活躍している。また地域農業の発展のために、地方農会の育成にも熱心だった。また1889年にはアメリカ式養蜂を紹介した『養蜂改良説』を発刊している。

1903年には、40代半ばで帝国大学教授を辞任し、新設の岩手高等農林学校の初代校長、1909年には新設の鹿児島高等農林の初代校長となった。人材育成に熱心だった。鹿児島高等農林の後継の鹿児島大学農学部には、玉利池、玉利通りがあり、胸像も立っている。

薩摩閥は政界、官界で名を成した人物が多いが、学問においても玉利のような先駆者を生んでいることを知った。玉利は、植物の育成だけでなく、人物の育成にも大きな関心を持ち、その責めを果たした。50代前半で郷里の鹿児島に帰り亡くなるまで20年にわたり活躍し、貴族院の勅撰議員の在任中に死去している。

玉利喜造は、若槻礼次郎総理時代に「終始熱心子弟ノ薫陶」「豊富ナル学識」「資料ヲ蒐集」、そして「農学界ノ第一人者」との功績で叙勲されている。研究と教育と実践を兼ね備えた日本の農学界の第一人者であった。

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