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「名言との対話」10月29日。中島知久平「何よりも大切なことは、精神的にまいらないことだ」

中島知久平. 中島 知久平 (なかじま ちくへい、 明治 17年( 1884年 ) 1月1日 - 昭和 24年( 1949年 ) 10月29日 )は、 日本 の 海軍 軍人 、 実業家 、 政治家 。.

中島飛行機製作所(現在の SUBARU )の創業者である。2023年3月に群馬県太田市の史跡「金山城址」を訪ねた際に、新田神社への途中に中島公園があり、中島知久平の銅像が建っていた。

翌日、旧中島家住宅を訪ねると、そこは中島知久平の旧宅だった。1万坪の敷地に建つ大規模住宅。同時代に大阪城の復興天守の建設費の47万に対し、100万円の建設費だったというからその壮大さがわかる。車寄せから入る応接室、客室部、居間部が中庭を取り囲むように設計されている。この家からは利根川の河川敷に設置された滑走路が見えたそうだ。今は、指定重要文化財になっている。

海軍兵学校出身の豊田穣『中島知久平伝 日本の飛行機王の生涯』(光人社NF文庫)を読んだことがある。今回、この二つをみることができ、理解が深まった。

中島知久平は群馬県太田市出身。海軍機関学校に入学し、飛行機に関心を持つ。任官後もその重要性を主張して、航空機関係の職務を歴任した。

1917年、海軍を大尉で退官し、郷里の群馬県太田市に飛行機研究所を設立した。この研究所は、中島飛行機株式会社に改組される。名機といわれる九一式戦闘機、有名な「隼」や「紫電改」をはじめ126種の飛行機を開発し、太平洋戦争終結までに約2万6000機を生産した巨大な航空機メーカーとなった。
1930年、中島は衆院議員に当選し、政友会の幹部となる。第1次近衛内閣では鉄道相、東久邇内閣で軍需相(のち商工相)に就任した。戦後はA級戦犯に指定されたが、のちに解除された。

中島は大艦巨砲主義を時代遅れとし、空軍独立などを唱えたが、容れられないとみると、自身の手で飛行機を開発する挙にでて成功している。中島の考えは、以下の通りだ。

・貧乏国日本が列強並みに建艦競争をつづけるのは、国費のムダづかい。そんなことをしていてはやがて行き詰る。
・能率的軍備に発想を切り替え、二艦隊(軍艦八隻)をつくる費用で、八万機の航空機を作るべし。

・米軍の大型爆撃機が量産に入れば日本は焼け野原になる

・経済的に貧しい日本の国防は航空機中心にすべきであり、世界の水準に追いつくには民間航空産業を興さねばならない。

「不肖、爰(ここ)に大いに決するところあり・・・海軍における自己の既得並びに将来の地位名望を捨てて野に下り、飛行機工業民営起立を劃(かく)し、以ってこれが進歩発達に尽くす」

中島知久平をあらわす言葉は、この本の中に散りばめられている。不羈奔放。気宇壮大。巨視的で先見の明がある。雄大な構想を持つ愛国者。決断と断行。異才。大器。飛行機王。予言者。リアリスト。ロマンチスト。統率力とバイタリティ。、、、、

中島飛行機の創業者・中島知久平は、戦後は大型旅客機をつくり平和に貢献したい、と語っていたが、その時間は与えられなかった。またアメリカと同じように自動車の時代がくると予言し、自動車工業を盛んにすべきだと説いている。中島飛行機の技術と人材は、富士産業、富士重工業、そして現在のSUBARUにつながり、今日の自動車産業の隆盛に一役買っているのである。

日本は焼け野原となったが、日本の科学技術は欧米に劣るものではなく、「日本の復興は意外に早いと思う」と予言している。「何よりも大切なこちは、精神的にまいらないことだ」。心理的敗北感をいつまでも持たないで、精神的にまいらずに、気持ちを復興させることを提言している。

2023年現在の日本は1990年代初頭からの30年間で、デジタル時代に対応できず、経済のみならず、精神的にもまいっている状態になっている。中島のいうとおり、「精神の復興」から始めよう。

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