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「名言との対話」3月1日。永野光哉「人は、棺桶の蓋が閉まってから評価が始まる」
永野光哉(1929年12月3日ー2011年3月1日)は、ジャーナリスト、経営者。
小学校2年で「酒飲んでぼくを笑わすおじいさん」「戦地より帰還の勇士ひげ生やし」と詠み、川柳少年になる。陸軍幼年学校入学。敗戦で県立熊本中学校に復学し卒業。税理士をめざし明治大学専門部商科に入学。浜松町の「新夕刊」でアルバイトをする。卒業後、産経新聞社南九州支局を経て、熊本日日新聞に入社。社会部長等を経て1985年社長、1997年会長。2002年名誉会長。
熊本日日新聞社編集委員室長の井上智重氏の永野光哉の人物論を読んだ。「熊日」は再び戦争を起こさないために、「自由独立」「厳正中立」「不偏不党」の三綱領を持つ新聞社だ。永野は社会部記者として三井三池争議、水俣病問題、下筌ダム闘争など戦後熊本の重大事件を取材。また、明治以来の熊本兵団の歩みに関する資料収集を行い、『熊本兵団戦史』を中心となって執筆した。三年間、「熊本兵団戦史』を書き続けた。連載、実に1069回に及んだ。3部作として本になっている。連載も終わりに近づいた1964年11月末、「ブーゲルビル島遺族の質問にお答えする会」を開く。最後の第六師団長秋永力も大分県中津市から出てきて、豪州軍の命令で仲間の遺骨を母国に持ち帰られなかったと、涙ながらに詫びた。県護国神社で盛大に慰霊祭が挙行され、約4000人の希望者に遺骨が分けられた。
道徳再建運動、暴力団追放キャンペーンを成功させる。社長室企画部長、業務局次長兼広告部長、社業推進委員会増収部会長、常務取締役東京支社長、専務。この間、業務・経営のシステムの近代化を推し進め全国でもトップクラスの地方紙に発展させた。56歳、社長に就任。社長となって、1987年には日本で最初の新聞博物館を設立する。同館は新聞協会賞を受賞している。シティ‐ホテル、ショッピングゾーン、カルチャースクール、武道場、それに熊本市現代美術館も入居する「びぶれす熊日会館」を完成させ、熊本市中心部に文化的都市空間を誕生させた。会長を退き、ホテル日航熊本の社長となっている。マスコミ界をはじめ、社会、文化、スポーツなど、公職は一時期はその数が百三十にも及んだ。郷土愛の塊のような人だった。
2011年3月1日、永野光哉は熊本市の自宅近くで、乗用車にはねられた。出血性ショックのため熊本市の病院で81歳で死去する。
私は2011年2月21日、熊日サービス主催の経営セミナーで、くまもと新世紀ホテル日航の隣の熊日会館で行われ講師をつとめたことがある。熊日は35万部で、朝日など全国紙の合計でも40万部だから、大きな影響力を持つ地方紙である。受講者は「熊日」という冠を被った企業が多かった。熊日大津南販売センター、熊日会館、熊日販売会社、熊日輸送センター、熊日計算センターなどの経営者と管理職だった。翌日には永野も応援した熊本学園大学の岡本悳也学長が熊日新聞で知ったといってホテル日航熊本訪ねてこられ朝食をご一緒する。9月にこの大学で教職員に講演を頼まれた。永野光哉が亡くなったのはこの直後だったことになる。
熊本は新聞人のふるさだ。徳富蘇峰、池辺三山(大阪朝日)、鳥居素川(大阪朝日)、本山彦一(大阪毎日)、光永星郎(電通)、伊豆富人(熊日)などさまざまな人物が出ている。永野はその系列に連なった人物だ。行動力ある言論人、卓抜な経営者として熊本の社会発展に尽力している。この人の生涯を追うと、目の前のテーマに全力で立ち向かい圧倒的な成果を挙げ続ける人だったことがわかる。交通事故による死は、熊本をゆるがしただろうことは想像に難くない。「棺桶の蓋」が閉まるのは少し早すぎたように感じた。