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「名言との対話」6月22日。田中芳男「人の人たる道は、この世に生まれたからには自分相応の事をして世用を為さねばならない」

田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日1838年9月27日) - 大正5年(1916年6月22日)は、幕末から明治期博物学者動物学者植物学者農学者園芸学者物産学者錦鶏間祗候男爵。長野県飯田市出身。文明開化期の時代に教育・殖産の発展に貢献した。1856年伊藤圭介に師事して医学・博物学を学ぶ。1862年蕃書調所に出仕後、1866年パリでの万国博覧会に出品のため渡仏。明治新政府でも、1873年のウィーン万博、次のフィラデルフィア万博に派遣されるなどの活躍をしている。1878年創立の駒場農学校(東大農学部の前身)や上野の山に博物館と動物園を創設し、田中久成の後任として二代目の博物館長に就任している。1890年に貴族院議員、1893に日本園芸会副会長、1915年には男爵を叙爵。蔵書約6000冊は東京大学に田中文庫として保存されている。

「博物館」という語は、幕末維新の官吏で漢学者・国学者の市川清流(1822年生)の訳語である。文久遣欧使節の一員としての見聞記『尾蠅欧行漫録』の中で、British Museumの訪問を「今日御三使博物館ニ行カル」と記した。田中は薩摩出身の町田久成1838年生)とともに、博物館を普及させた。東京国立博物の初代館長は町田であるが、半年後に辞任し出家したため、田中芳男が後を継いだ。この町田久成も興味深い人物なので、没した9月15日に取り上げることにしたい。「博物館」というテーマを追うだけでも、日本近代・現代の大人物が登場することになるだろう。森鴎外、渋沢敬三梅棹忠夫もその流れにある。

「人の人たる道は、この世に生まれたからには自分相応の事をして世用を為さねばならない」は、田中芳男本人の言葉ではない。医師であり、漢学に詳しい父・隆三が芳男に教え諭した言葉である。博物館の普及に功績があり、「日本の博物館の父」と呼ばれるようになったのであるから、「自分相応の事」を為したと言えるだろう。

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