板書された読みはだれ読みでもない
読解授業では、作品の解釈にかかわる発言を教師が黒板に書きながら、つまり板書(ばんしょ)しながら、話し合いが進むという姿が見られる。授業が終わるころには黒板に読解の経過と結果の記録としての板書が完成する。それが子どものノートに書き写される。そのノートを見ると、そこで生まれた読解の心理過程と結果がわかる。と、思い込んでいる教師が今も少なくない。
しかし、板書に残された読みは、その場に居るだれの読みでもない。なぜなら、読みは、一人一人の心の中だけに生まれるからである。だから、黒板に書かれた読解の心理過程のようなものや読解の結果みたいなものは、教師も含めてその場に居合わせただれ一人の読みでもない。
教師の読みも一人の読者の読みであり、子ども一人一人の読みも一人一人の読者の読みである。そして、どの一人の読みもその人のその時の読みとしてかけがえのない読みである。
作者の意図を正確に読み取らせなければならないと考える教師がいる。しかし、それは不可能である。読むという心理作用の本質から見て、それは不可能である。読者が百人いれば百とおりの読みがある。一人の読者の中でも、読みは読むたびに変化する。一斉授業形態で行われる読解授業の中で作り上げられた板書は、その場に居合わせただれ一人の読みでもない。読みは、一人一人の心の中にしか生まれないからである。読みは、読む人の心の中に生まれ続け、変わり続けるからである。
読解授業をする教師は自分の読みをもたなければならないと言う人がいる。その意見に、私は賛成できない。なぜなら、人がものを読めば、その人なりの読解や感想が生まれるからである。そして、教師も読者の一人だからである。持とうとしなくても生まれるからである。だから、教師は自分の読みをもたなければならない、なんて言う必要はない。
読者は、文字を読み、意味を取り、作品から生まれるイメージ世界を楽しめばよい。そういう楽しみを重ねるたびに、読む力が伸びてくる。読みの学習はそうありたい。読みの教室もそうありたい。
教師も子どもも、一人の読者として、それぞれの読みを語り合いたければ語り合えばよい。語りたくなければ語らなければよい。聞きたくなければ聞かなければよい。そうすれば、国語の授業が今よりももっと楽しく、もっと実りあるものになるだろう。