アホか!
アホか!
ぼくの主張はいつも「と思う」で終わる。
客観的に証明できないからだ。
だから決着がつかない。
決着がつかないから考え続ける。
それでいい。
それがいい。
「と思う」が、ぼくを考え続けさせてくれる。
考え終わらない。だから、可能性が無限に広がる。
それが面白い。
それが楽しい。
苦しいけれど、楽しい。
「断定しないのは論文とは言えない。断定できないことを書いてはいけない。」と人々に説いた人がいた。
客観的に証明されたこと以外は書くなということであったかもしれない。
普遍妥当の心理であると論証できること以外は書くなということであったかもしれない。
その人は、教員の間で広く読まれる本や論文を書いた人であった。
大学の先生でもあった。
その人の主張に納得してしまった多くの人がいた。
その結果、「と思う」を無理やり「だ」に置き換えて書く人が増えた。
書けない人も増えた。
書かない人も増えた。
アホか!
「と思う」は「と思う」である。
「と感じる」は「と感じる」であり、
「と見える」は「と見える」であり、
「だろう」は「だろう」であり、
「かもしれない」は「かもしれない」である。
そして、
「だ」は「だ」である。
そう書けばよい。と私は思う。
「痛い」は「痛い」であり、
「痛いだろう」は「痛いだろう」であり、
「嬉しい」は嬉しい「嬉しい」であり、
「嬉しいだろう」は、「嬉しいだろう」であり、
「寒い」は「寒い」であり、
「寒いだろう」は「寒いだろう」であり、
「直った」は「直った」であり、
「直っただろう」は「直っただろう」である。
そうならばそう言えばよい。
そうならばそう書けばよい。
断定できるものは断定し、断定できないものは断定しなければよいのだ。
論文であろうがなかろうが、そう書けばよいし、そう書いたほうがよいのだ。
アホか!
そう言うぼくも、断定表現をすることがある。確信の度合いが高い場合にはそうすることが多い。しかし、その場合でも、断定表現の背後に、「と思う。」と「と感じる。」が隠れている。