教えられたようには読みたくない!
文学作品をどう読むかは自由なはずなのに、国語の先生は、読み方を教えたがる。
主題や作者の意図、あるいは登場人物の心情等について、他人の解説を聞くのは、私にとっては邪魔でしかない。私は自分流に味わいたい。
私は文字をどう読むかも自由にしたい。文字や語句についての辞書的情報や事典的情報は助かる。自分でも、ネットや紙資料を調べて参照する。
しかし、文字の読み方であっても、一つの読み方を強制されるのは拒否したい。例えば、「他人事」「草原」「一本」などの読みについての参照情報は欲しいが、そこからどれか選ぶかは自分で決めたい。
「ごんぎつね」の主題や「ごん」の心情が「片思い」だという説得力の強い説を読んで以後、その説が雑音となって、「ごんぎつね」を読みたくなくなった。その雑音から解放されるのに20年ほどかかった。
絵も音楽も同じ。自分で出会い、自分で感じたい。美術館での解説付きグループがあったら、私はそこから離れて、自分で絵を見る。
将棋だって、わきから教えらえたとおりに駒を進めて勝ったとしても、勝った喜びはないだろう。負けてもいいから、自分の判断で駒を進めたい。
国語教師は、どうしてこうも、わきから口を出すのか?! なに!テストがあるからだって?そのための親切でしているって。なるほどそうか。そうだろうなあ。
そうだね。従来のペーパーテストでは個性的な読みを不正解にする採点者もいるからなあ。点数を稼ぐためには、割り切って対応するしかないだろうなあ。テストが変わるか、廃止されるか、するまでは・・・。
でも、文学読解のテストの正解って、どれだけ正解なの?そもそも正解って一つなの?やはり文学の読解テストは無くしたいなあ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?