俳句でもなく詩でもない
昨日、友人から、首藤が作る「自由季俳句」と称する代物は、「俳句」では勿論ないし、「詩」ですらない。なぜなら、そこに、詩情(ポエジー:詩想・詩心)が無いからである。首藤は国語教育研究者であって国語教育者ではない。とのご指摘をいただいた。
そのとおりだと思う。これまでの私は、季語についての知識が無くても、上手な句が作れなくても、五七五の定型さえ守ればだれでも俳句創作を楽しむことができるようにしたいと願って、季語の有無や季節にこだわらない「自由季俳句」と称する「五七五句」を作って遊ぶ世界の実現を目標にして発言し、五七五句を自作して公表してきた。そういう意味で、これまでの私は「俳句自由化運動の実践者」の一人であり、俳句教育を志す者の一人であったと思う。
が、今は、その立ち位置からも自由になり、俳句教育者ではなくなった。今の私は、五七五の定型からも解放されて、わがまま勝手に、自由律短詩遊びを実践している。ただただ、Facebookをという公開の場を借りて、短詩遊びを楽しんでいる。
そういう私も、今はまだ、できるだけ五七五の定型に収まるように作ろうとしていて、そこから外れる度合いが大きくなってきた状態にすぎないので、「五七五遊び」「五七五句」というタイトルを捨てていない。
が、そのタイトルも、そのうち、さらりと捨て去る境地に至るかもしれない。
20230605 首藤久義