『すべての、白いものたちの』
12月。師走らしい慌ただしさが、今年はどこか健全にさえ感じられる。
手帳に書き込まれた予定たちが、その白をうめつくしていく一方で、
わたしの身体や頭の中に余白が生まれていくふしぎなバランス。
大晦日や正月の一斉浄化力は実感を持って期待できるから、
今は残りわずかになった今年の日々を、怖がらずに駆けられる。
そういう感覚があるからかもしれない。
久しぶりに、本を一気読みする、そういう夜時間を持てた。
図書館でリクエストしたものの、取り置き期限が過ぎてしまい、
「空白」の時間ののち再度予約の手続きをして、手元にやってきた。
『すべての、白いものたちの』 ハン・ガン
この本が話題の書であることもほぼ知らず、
知人のインスタグラムで紹介されていて、惹かれていた。
でも、手にしたときから予感はあった。
わたしはきっと、この本を、飲み干すように読むんだろうなと。
そして昨晩がその時だった。
少し前に、このnoteで「記憶のこと」と題して文を投稿した。
それにまつわる学び以来、記憶のことと、
記憶とよべるのかさえ分からない、
でも深いところでわたしに託されているような「白いページ」について、
わたしはずっと考え続けている。
思考ではない。
わたしの命に関わることだから。
言うなれば、「白いページ」は、
会ったことはないけれどとても身近な人の人生と、
わたしの人生の交わるところ。
そのことが、言葉ではない言葉で、書かれている、
わたしにしか開くことのできないページ。
やっぱりどこか「記憶」のよう。
その人と、わたしの間だけで交わされた、約束みたいだ。
その人のことを、わたしはずっと感じている。
その人の弟(ずいぶん後で知った)が、わたしを見て
「よく似ている」と目を細めた日。
その人のことをはじめて知った、中学生のとき、ああと、繋がったような感覚があった。
なぜその人が早くに死んでしまったのか。
その死にあったもうひとつの悲しい死については、
わたしは、二人目の子の出産直前に、はじめて知った。
わたしのなかで、触れたいようで触れられず、
神聖化するしかなかったような、母の記憶。母の怖れ。母の悲しみ。
わたしのおなかのなかで育つ、命の、自然な力強さに、
わたしはすっかり自分を開け放ったようになって、
「この出産で、わたしは母を産もう」という気さえあったような気がする。
母と、その母と、生まれるはずだったもうひとりの命。
母が母を失った後、やってきた、育ての母、
わたしにとってのばーちゃんも、遠い故郷で、子と別れてきていたらしい。
そういったことの、悲しみや、不思議や、問いや、怖れや、憤りや、
それらすべての命のことを、わたしはずっと、こだわっていた。
「白いページ」は、わたしにしか開けない。
わたしにしか読解できないかたちで、すべてのことが書いてある。
わたしは、読む。
読もうと思う。
あなたたちの命を
そのぬくもりのなかで。
わたしの創作活動をサポートしてくださる方がありましたらぜひよろしくおねがいいたします。励みとし、精進します。