遊ぶために生まれてきた?
いったい私たち人間は、いかなる点において他の動物と違っているのでしょうか。人間が真に人間らしいとはどういうことなのでしょうか。
ギリシア以来、哲学者は人間を他の動物と峻別するために、さまざまに規定してきました。「ホモ・ファーベル(作る人)」「ホモ・エレクトゥス(直立する人)」「ホモ・エコノミクス(経済活動する人)」などがそうです。よく知られているのは、「ホモ・サピエンス(知恵のある人)」でしょう。
「遊んでいる」状態が究極の姿
私が好きなのは、『中世の秋』で知られるオランダの歴史学者で哲学者のホイジンガのネーミングです。彼は人間のことを「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と呼びました。人間とは遊ぶ動物である。「人は遊んでいるときがもっとも純粋な人間の姿を表している」というのです。
いいですね。
「あらゆる文化はすべて遊びの中から生まれた。遊びこそが人間活動の本質」というのがホイジンガの説です。
私たちが何にもとらわれずにいる究極の姿は「遊んでいる状態」なのかもしれません。
たしかに、人が夢中になって遊んでいる時、外部からの邪魔はないし、当人にもなんのわだかまりもありません。それは幸福な状態でもあります。
平安時代の子どもの歌
実は平安時代民衆の間で「遊びこそすべて」が歌われています。高校の古文の時間で習った記憶があります。
遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば、わが身さへこそ揺るがるれ
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』より。1180年ごろ
《遊ぼうと生まれてきたのかな、ふざけて戯れをしようとして生まれてきたのだろうか。無邪気に遊んでいる子どものはしゃぐ声を聞くと、大人の私でも心が震える》
これを歌った人は、夢中で遊ぶ童(わらべ)の天真瀾漫な声を聞いて震えたのです。童の心の中には一点の曇りや、遊び以外の要素がまるでないのです。
つまり、遊びのための「遊び」のようです。
大人がトロける
近代に生まれた私たちはいつのまにか、秩序や大人社会に適合するようしつけられます。常識を守り、良きものは先に(未来に)あるとばかり、今をがまんして知識や論理の習得を強制されます。
結果、規範やルールの中で、大人やまわりが自分をどう見るかが優先し、「本来の自分」を探し出そうとします。
おそらく、人間として生きるということはそういうことなのでしょう。
だけど、子どもが夢中に遊んでいる様子に私たちが動かされるのも事実です。だからこそ、平安時代の読み人知らずの歌に、今も私たちが共感を寄せるのでしょう。
小さな赤ちゃんの動作や表情をみて、大人がトロけるのも、私たちの中にその「名残り」があるからなのかもしれません。
では、大人になってしまった私たちは、どうすればよいのでしょうか。
遊びのための「遊び」とは
ホイジンガが、文化や芸術のルーツに「遊び」を見出したように、もしかしたら、近代社会においては、かろうじて芸術や娯楽に「遊び」が残されているのかもしれません。
だけど、注意すべきは、商業に支配された、憂さ晴らしや時間つぶしのような娯楽は別物でしょう。
梁塵秘抄に残された歌のように、魂が自由に舞う「遊びのための遊び」こそ、と思います。
(了)
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