見出し画像

私は、流れる水のようでありたい

6年前に書いたnoteを、ひさしぶりに読んだ。


そのときに感じて書いたことは、
たぶん、ここ数年の私にまた当てはまるのだなと思う。

4年前に生産者として独立して、私自身の事業として動かすことが怖い部分もあり、コロナを経て気軽に遠くの人と会いづらくなり、SNSが怖く感じるようになり。


ここ2年ほどは、安心感を感じられなくてなんだかしんどかった。

新しいことを始めたことが重なって、エネルギーがだんだんと減ってきてしまっていた。

「ちゃんとしなきゃ」と「甘えるな」という呪いの言葉がベタっと重なって、

すこしずつだけど、私の中の感覚や感性が死んでいっている感じがしていた。

「何が好きなの?」と聞かれても、具体的に何を好きなのかがわからない、答えられないことに気づいたのが去年。

素直にまずいなと感じた。

そんな中、すこしずつでも物事を進めてきたりできているのは、その都度で焦りながら調べたり人に聞いたりしていく中で、環境に順応できつつあることや経験値がすこしずつ上がってきていること。

頼っても大丈夫な人たちや相談できる人たちがいてくれることで、すこしずつ安心できるようになってきたのかもしれない。

「甘えるな」と言われたことがあるけど、私から言わせれば、「甘えて何が悪いんだ」と思う。

人は「ひとり」では生きられないし、自分自身で持てるキャパがそれぞれある。

体はひとつなのだから全部をひとりでやらず、難しい部分は頼ったほうがいい。そういうことを日々実感する。

そういう言葉を発する人は、もしかしたら自分自身の仕事、物事を当事者として立って歩いたことのない人なのかもしれないなと、そのときの私は感じてしまった。
実際に積み重ねてやってきている人ほど、驚くほど優しい気がした。

そんなことを思いながら、すこしずつすこしずつさまざまな物事に順応してきて。
ひさしぶりに6年前のnoteを読んだわけでした。

考えが凝り固まったり、この場所に居続けなきゃと思ったり、我慢するのは私には全然合わなくて。

「海に居続けなきゃ」というのをすこしずつ手放して、すこしずつ外へ、外へ、出ていきたいなと思う。

ただ、6年前に書いたnoteのときと今とではすこし違う部分もあって。

いまの私は、生産者。
生産作業の落ち着いている夏と初秋は動けるけど、わかめ(やお手伝いしている牡蠣、いちご)の生産が始まる冬前から春頃までは移動自体が結構難しくなるので、
私のかわりにシャンプーとコンディショナー、写真や言葉が、いろんな土地へと旅に出てほしい。

すこしずつでも、届いてほしい。

そしてやっぱり思うのは、海の近くにいる私に会いにきてほしい。

離れていて直接会えなくても、オンラインで話したいなと思う。

頑なになりそうな気持ちをすこしずつゆるめて、するすると流れる水のように、その都度の状況に応じて柔軟に変化できるようでありたい。

そういうことを思った、朝なのでした。
またゆっくり書こうと思います。






私のnote、読んでくださってありがとうございます。 もしも「いいな」と思っていただけたら、感想と一緒にRTやシェアしていただけるとうれしかったりします。。