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今秋から、わかめの生産者になります

(2020.11.09 追加/修正しました)

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(photograph : 佐々木 太陽)

こんにちは。
陸前高田で漁師をしている三浦 尚子(みうらひさこ)です。

(主な自己紹介や仕事の話はこちらのnoteへ。)

2014年の春に陸前高田に住んで海の仕事をはじめてから、気づけば6年半が経ちました。
ひたすらお世話になっている地元の漁師さん家族たちと、地元のおじいちゃんおばあちゃんたちと一緒に日々働いています。

今年のお正月にこういうnoteを書きました。

"私にとっての主軸は"牡蠣やわかめを育てて、広めること"です。
今年はこの主軸の中での幅を広げて、スペシャリストとして精度を上げて追求していくこと。
そのために今年はすこしずつ体とやることを整えて、ひとつひとつの物事に集中できる環境をつくっていこうと思います。"


この年始のnoteの話に続くのですが。

私が学生の頃からずっとお世話になっているボスたちや私の周りにいてくださる方々のおかげですこしずつ必要なことが整っていき、広田湾漁業協同組合の正組合員に昇格して、私自身もわかめ生産者のひとりになります。

正直経験も知識もほんとに未熟なことは承知の上ですし、自分なりに大それたことを決めたなと思っています。

もしかしたら、こうやって書くと「独立なの?職場辞めるの?」みたいに思うかもなあと思うのですが、辞めません。

私はこれからも1年通してマルテン水産でボスたちの牡蠣やわかめの仕事をしていきますし、私個人のわかめ作業も並行してやっていきます。
職場と個人の仕事も両方やっていくので、「大半雇用、すこし独立」みたいな感じ。

やることや居場所は全然変わらないのだけど、いままでとはほんのすこしだけ違う立ち位置になるので、そのお知らせ的な意味も込めて今回このnoteを書きました。

このnoteは
①なんでわかめの養殖をはじめるのか
②私がどう生きていたいのか
③これからどう動いていくのか

みたいなことを書いていこうと思います。

長くなりそうですが、最後まで読んでいただけるとうれしいです。



なんでわかめ養殖をはじめるのか


突然ですが、私自身のイメージはどんな感じでしょうか?

私のことを知っている方々は、もしかしたら「ひーさん=牡蠣」というイメージを持たれている方が多いかもしれません。なので、「なんでこれからわかめを育てるの?」と思う人もいらっしゃるかなあと。

通年で主に携わっているのは牡蠣の仕事ですが、実のところ私にとって漁業の世界へ入るきっかけはわかめの仕事でした。

まずはじめに、なんでこの仕事をはじめたのか。
きちんと話したことがあったかは忘れちゃいましたが、漁業の仕事に携わることになったきっかけや移住までの流れを書いていこうかと思います。

わかめの仕事は、私にとっての「救い」でした。

移住をする6年半前、私のメンタルはどん底。
大学の卒業式の1週間前に家族の金銭的な問題がわかって、どういうことなのかを聞いても「大丈夫」としか言われず、とにかく毎日焦ってました。
「いきなり住んでる家が無くなるんじゃないか?」みたいな不安が常にあって、状況がわからないことで病んでておかしかったなあという感じを思い出します。

その頃の私は、「自分に力をつけて仕事したほうがいいんじゃないか」と思って就活を速攻でやめて、文章に関わる仕事がしたくて編集インターンやライターさんのお手伝いをしながら、やりたいことをして軸の定まらない身。そんな状態だったから、余計に焦ってました。

卒業式から数日経った頃、ゼミの先生に相談していたこともあって、先生から電話がきました。

震災後からゼミで交流があってお世話になっている陸前高田の漁師さんが「わかめの作業の人手が足りてないんだよね」とゼミの先生に話していたそうで、「三浦さんを推薦した」とのこと。私のことを心配して、おかしな方向にいかないように思ってくれた先生なりのやさしさでした。

私はこの電話をいただいたことをきっかけに、陸前高田で1ヶ月間くらいわかめ作業のアルバイトをすることに。
わかめや仕事に関することなんてなにもわからずに、未知の世界へ出発しました。

このときは私が先生からの電話を受けたタイミングに一緒にいて、留学に出発するまで期間があいていたゼミの同期とともに陸前高田へ行ったので、ふたりで仕事はじめの朝。人生ではじめて漁船へ。

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学生の頃からお世話になっていたボスのひとり、眞さんからどうやって刈り取りをするのかを説明を受けて、見よう見まねではじめてのわかめの刈り取り。はじめて海に浮かんでいるわかめを見たら茶色くて、「あれ?なんで茶色…?」みたいな気持ちでした。わかめって、緑じゃないの?

また、船の上ではピリピリとした空気感がすごくて、「大丈夫かな…」みたいな不安がすごかった記憶があります。
ボスのひとりで、船頭の晃さんはこのとき初対面だったけど、話しかけづらくて最初ちょっとこわかった……。(いま考えれば、みんな目の前の作業に集中してるから普通のことだった)

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なにもわからないところからはじまったので、わからないなりにとにかく必死でした。
毎日海水や塩にまみれたり、重たいものを運んだり、みんなの仕事の様子を観察しながら動いていたことで悩む余裕なんてなく、おなかが減るからごはんがおいしく食べられて夜は速攻すとんと寝る、みたいな生活。

刈り取りして籠に入ったわかめや塩漬けにしていく様子など、はじめて見るものだらけで全てが新鮮で、とにかく未知でした。



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出航するときに見えた朝陽がただただ美しかった。
体力的にいえばかなり大変だったけど、この景色で全てチャラになるような感覚。

作業しながら話をしたり、夜にボスたちの家でお風呂を借りて、夕飯をご馳走になったり。夜の空気が澄んでいて星空がきれいだなあと感動したり。そういった日常があの当時の私には全部染みて、陸前高田で過ごした1ヶ月くらいは健やかな日々を生きれていました。

わかめ作業の期間を終えて、一ノ関から新幹線に乗って神奈川に戻っているとき、急に1ヶ月間の滞在中の記憶をぶわーっと思い出してさみしくなって。私にとって、すごく大切な時間だったことに気づきました。

また、「わかめ終わったあとは、今度は牡蠣の作業に入るんだよね」という言葉を聞いていて、牡蠣はどんなことをやるのか気になっていたことも心にひっかかりました。

いつもの日常に戻って1週間後。
晃さんに「また手伝わせてほしい」とお願いして、陸前高田に戻りました。
(ちなみに最初にやばいと言っていた実家は、夏前には大丈夫な感じに整いました。それもまたホッとした…。)

はじめの頃は「いつ帰ってくるの?」と友達やゼミの先生から聞かれることも多くて、「あと1ヶ月したら」とか「1年の作業の流れを見てから」とか答えていたけど、気づいたら6年半。

「いつ帰るのか」というはっきりとした答えを出さないままのらりくらりと過ごしていた時期を経て、ここでじっくりと腰を据えてやっていく覚悟のようなものができました。

23歳といまの私を比べたら、すこしはましな顔をするようになったんじゃないかと。そう思いながら、海のちかくで過ごしています。

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最初にも書きましたが、普段は牡蠣に携わっているけど、私にとって漁業の世界に入るきっかけになったのはわかめで、とても大切なものです。
毎年わかめの刈り取りがはじまる3〜4月は初心に戻って燃えるし、はじめて作業をした当時のことを思い出します。

2年くらい前から、30歳が近づくにつれて今後の将来のことを考えるようになりました。
「いつかは私の名前で養殖ができたら…」、みたいなことを考えたけど、現実的に考えると私のような新規参入者にとって、漁業は参入ハードルの高い業種です。

たとえば、牡蠣であれば作業をするための船、海や陸上で使う機械類、養殖いかだなど、設備関係の初期投資額がありえないほど高く、養殖するための必要な漁場が空いているかどうか、作業場になりうる場所がないと難しいです。
また、漁業権の関係から、養殖をする海のあるエリアの地区内に住所を置いて住み、地元漁民からの審査を経て漁協の正組合員となる必要もあります。

他にもいろんな条件と運がそろってはじめて突破できるものなのだけど、私の視点に牡蠣しかなかったときは、近い将来としては現実的に難しいなあとすこし諦めている部分もありました。

去年の秋頃、うちの職場に「将来的に海の仕事をやりたい」という方がやってきました。その方は釣り船をやりたいとのことで、私のボスのひとりでわかめ生産者の勝治さんが「釣り船だけじゃなくて、生出荷用のわかめ養殖をやったらいいのでは?」という提案をして、実際にわかめのロープ作りを学んでいました。

わかめは他の業種と比べると初期投資額が低く、単年養殖なので約5ヶ月ほどで仕込みから刈り取りまでできるものです。

客観的にそのやりとりを見聞きしていて、いざ私に置き換えたときに「よく考えたら、私ってわかめの養殖はできるんじゃないか…?」と思いはじめました。ほんとは選択肢としてあったけど、いままで気づけていなかった視点と可能性を見つけた感覚でした。

また、去年の春にわかめを養殖するのを辞めた漁師さんがいて、浦浜のわかめ漁場にすこし空き場所ができていました。
もしも私にできる可能性があるなら、悩むよりもまずはやってみたい。

11月の中旬頃にボスたちとじっくり話す機会があって、かなりの勇気を振り絞って「私、生わかめの養殖をやりたいです」と伝えました。

それを聞いた勝治さんは驚きつつも、私に対して「無理だ」とか「難しい」とか言わず、すぐに「いいね!」と笑顔で言ってくれて、それが素直にうれしかった。(ほんとにできないと思われていたら、すぐにダメと言われてたからめちゃくちゃほっとした…)

その話をした去年末あたりから、すこしずつ整えてきていまがあります。

まずは小友町内に住所を移すための家探しからはじまり、わかめ養殖を辞めた漁師さんたちから譲っていただく資材の調達、春に改定した陸前高田市と広田湾漁協が共同で出している漁業の担い手に関する補助金の申請。
正組合員に昇格するための資格審査委員会、浦浜のわかめ生産者たちの会議でボスたちや漁協の支所長さんから事前に私のことを説明していただいたりして、じわじわと私がわかめをやることが伝わりつつ、必要な物事が整ってきました。

この1年間は私ひとりでは絶対に整えられるものではなく、たくさんの人たちのサポートがあってここまで形にできたものです。はじめさせていただけることに、ほんとにありがたさしかありません。

23歳のとき、わかめの仕事をきっかけに私ははじめて漁業の世界へ入りました。

30歳を目前にして、今度は生わかめの養殖をきっかけに生産者のひとりとして立っていく挑戦がはじまります。
いまはまだできないことの方が圧倒的に多いけど、すこしずつできるように。いろんな出来事を楽しんだり悔しがったりしていこうと思います。

ちなみに、わかめの養殖作業や塩蔵加工の流れについてゆるくまとめたnoteマガジンはこちら。
私は生わかめの出荷をするので、沖での刈り取りまでの作業をする予定です。もしよければ覗いてみてください。



「流れる水のように生きる」


普段はマルテン水産の三浦尚子ですが、私個人としては”ura”という屋号を付けて活動していきます。”ura”は、三浦の「浦」から取った言葉です。

なんで「浦」という言葉を選んだのか、ローマ字にしたのかというとこんな感じの理由から。

①岩手の「三浦」のルーツの話から、私自身の名前の一部を残したくなった
②私が普段いる「浦浜」と呼ばれる場所
③海に関する言葉
④漢字よりも小文字ローマ字の方が、表記に流れを感じられる


みたいなところから決めました。
文字表記はローマ字だけど、浜で使ったり口頭では「浦」で捉えていいと思っています笑

私の父親は岩手県の一関市大東町の出身で、実は岩手にルーツがあります。
最初屋号を考えていたときは私の中ではまる言葉が全然見つからなかったのですが、あるときボスから千田家のご先祖さまと「三浦」のルーツのような話を聞く機会があって、それを聞いて直感的に私自身の名前の一部を残そうと思いました。
(この話は長くなりそうなので、興味のある方は直接会ったときに聞いていただけるとうれしいです。)



そして、この屋号に込めた私のあり方的な価値観は、「流れる水のように生きる」ということ。私自身がどう生きていたいのかを思ったときに、思い浮かべたのは「水」でした。

水は変幻自在に姿を変えて常に流れているように、私はひとつの視点だけに凝り固まらず柔軟でありたいし、できる限りフラットな世界線で生きていたいのです。

水はそのときの環境に応じて、形を変えることができる物質です。
水の液体や氷の固体、空気の気体、熱を帯びれば熱湯に、冷やせば冷水に。するするとやさしい流れであれば人を癒し、濁流のような強い流れは物事を破壊する力も持つ。流れが滞れば濁るけど、流れていれば純水のようにきれいなのが水です。いろんな姿に変化していきます。

また、性別や居場所、前例のあるなし、良い/悪い、正解/不正解とか関係なく、私はいろんな視点やひとりひとりが持つ多様な価値観を尊重したい。

そして、そういった私の考えを反映させた屋号のロゴを作りました。

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(Art Direction / Design : 山内 稜平 )

盛岡にある ”grams design office”のアートディレクター / グラフィックデザイナーで、山羊座友達の山内稜平くんにご依頼。私自身にまつわる海や、私がどう生きたいかを表してくれたロゴを作っていただきました。(めちゃくちゃ素敵なのができました…!)

ロゴは「み」という字をモチーフに、陸前高田の外海と内湾の海の様子 / かすれを帯びた線で水の流れの動き / 日差しのイメージと、私自身の価値観や人柄を合わせてくれたもの。
実はロゴとタイポを続けて読むと、「みうら」になります。

仕事をする上で、こういった私自身の価値観に合うのか合わないのかを軸に決めていくつもりですが、このロゴは私自身が仕事をしててぐらぐらと迷いそうなときに原点に立ち返るための「お守り」だと思っています。
このロゴのおかげで、私の軸をしっかりさせてもらいました。ありがとう!



いままでの生活を続けていくことも道だと思うんだけど、それだけじゃだんだんと満足ができなくなってしまった。絶対に大変だと思うけど、いままで入ったことのない道に入って、ただただ燃えたかった。いままで見えてこなかった深い部分を見て、純粋に自分事として捉えたかった。

私にやれるのかやれないのか、現実的なところを見てずっと悩んでたけど。
悩んでても仕方ないから、視点をずらしてまずやってみることが大事だと思いました。

もしかしたら、私は未知なところを進んでいくのが好きなのかもしれないです。



育てること、伝えること


これから先、どう動いていきたいのかという話。

私は前から育てることと、広めることをやりたいと話していたのですが、それを自分なりに考えた結果、「生産者」/ 「編集者」というふたつの軸を目指したいと思いました。
そして、それは事業として、きちんと地域にお金を循環させられる形でやりたい。

一次産業者側としての目線で考えると、そのふたつをいい塩梅で両立するのは大変だけど、できることならバランスをとって両方を目指す気持ちです。

まず生産者としての話をすると、私はプレイヤーとして立っていたい。これが1番大事なこと。
そもそもですが、生産者として「育てる」という主軸がしっかりと成り立っていかないことには、全く話にならないなと思っています。

現段階では完全に未熟。「やります」と言ったものの、私ひとりではスタートにも立てないのが現状です。実際はお世話になっているボスたちや様々な方との縁、全面的なサポートをしていただいて成り立つ状態。

何年と仕事をしていても実はまだ経験していない部分の作業があったり、事業者として経費や作業のことを考えたり、未経験な部分もたくさんあります。

9月の後半からわかめを養殖するためのロープを作りはじめましたが、去年まではボスたちのサポートをしていたので、実は私自身がロープとポールを繋ぐ大事な部分を結んだことがありませんでした。
一連の流れや作り方、結び方はわかってるけど、実際に施設づくりの1台目に取りかかった時点では私が結んだものはすこしゆるみができてしまい、「なんでがっちり結べないんだ…」って思って落ち込みました。

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(photograph : 飯塚 麻美


そういういままでできてなかったことをひとつひとつ経験や勉強をしながら吸収して、必要な物事をそろえていって、すこしずつ私自身ができるようになるには、まだまだ時間が必要です。

また、自然と生き物が相手なので人間の都合なんて関係なく、すぐに経験を積めるものでもありません。その季節の、そのときじゃないとダメなこともある。1年に1回のチャンス、みたいなものです。
私は7回しか経験してないし、まだまだ毎年の変化をよくわかってはいません。

先は長くて地道だけど、ひとつひとつを感じ取ってすこしずつ生産者として立っていけたらと思っています。
ひとまず、この秋から来年の最盛期に当たる4月末まで、きちんと最後までやりきるために集中して突っ走ります。


次に編集者としての話。
私は「編集」って本や文章だけではなくて、もっと広い意味で捉えています。

いままで地元で「当たり前」とされていて見えていない物事や作り手の思いを紡ぎ直して、元々あったものの見せ方を変えたり、気付いていなかった価値を視点をずらして変換させて伝えることも編集者の役割なのかなと。
そういった「伝えること」を、陸前高田の中からできる範囲ですこしずつやっていきたい。

最初に話していた「広める」という部分ですが、どちらかというと「伝える」のほうが私の感覚としては合っているかもしれません。浜にまつわることを伝えることで、漁業に興味を持っていただいたり、知るきっかけとなる入り口づくりができたらなと思っています。

いまのところ、私の中できちんとやりたいと思っていることを大きくわけると3つ。
陸前高田内外の人や物事を自分なりにゆるく繋ぎながら、時間をかけながらじわじわとできたらいいなと思っています。

・自然の循環を考えるものづくり
・作り手と食べる人をつなぐ小規模なリアルイベント
・浜にまつわるコンテンツ発信

それっぽく書くとこんな感じ。
こういったことはこれからはじまるわかめ養殖が無事に一段落ついた頃の、来年の5月中旬以降くらいからすこしずつ進められたらなと。こっちの軸は、私の海作業のオフシーズンに当たる時期に現れるものと思っていただけたらうれしいです。

ただ、編集者としても動きたいと思っていても、普段海で作業をしてる私だけではなかなか動きづらく、実際に物事を進めていくには結構難しい…。
ここ数年で確実にわかってきました。

なので、私と一緒に楽しんでくれる仲間集めをゆるくしながら、いろんな職種の友達たちや地元の人と一緒に共同制作をしたり、そのときどきでチームを組んでクリエイティブや食のプロな友達たちにご依頼できたらと思っています。
(私の横で「がんばれー」と伴走してくれる友達たちがいてくれると、時間がかかってもへたらずやれそうな気がしてます…。)


困ったことに、私は思った以上にやりたいことが多くて欲張りです。職場の仕事も個人の仕事も平行してやりたいし、伝えることもやっていきたい。

でも、やりたいことがあっても私の体はひとつ。
確実に追いつかない部分が出てくることは間違いなくて、やりたいことに比例してやらないことの荷下ろしをすこしずつしていかないととも思っています。

2020年11月から2021年内のやらないことを決めて、こちらのnoteに書きました。

下のnoteにも書きましたが、11月1日以降にご連絡いただいた私自身の経験などをお話しするお仕事のご依頼や取材等はお断りさせていただいております。取材等のご検討くださっていらっしゃる方がいましたら、もうすこし詳しく書いたこちらのnoteを読んでいたたけたら幸いです。

ここ半年間は生産者としての立場でははじめての養殖になるので、未知な部分が多いです。なので、2020年11月から2021年4月末までは海の仕事に集中させていただけたらと思います。

(* 10月31日までにご連絡いただいて予定がきちんとたっている仕事のご依頼や取材等に関しては全力で務めさせていただきますので、何卒よろしくお願いいたします!)

また、話がそれちゃいますが、誰かに私自身のことを表すときにわかりやすく「漁師」って言っているのですが、私は私自身を「漁師らしい」と思ったことがありません。いかにも漁師!みたいな要素がめちゃくちゃ薄いし、たぶん周りから見てもそう見えてるだろうなあと思っています。

でも、もはや「漁師らしくない」ところが私らしくていいんじゃないかなと、開き直ることにしました。その結果がこのふたつの軸です。
なので、「漁師」という表し方はやめて、これからは「生産者」と「編集者」として進んでいこうと思います。



最後に

私はずっと、人の縁に恵まれて生きてきました。

陸前高田にくるずっと前も、住んでからの6年半も、気にかけてくださる誰かのやさしさに支えられてなんとか生きてこられた。
どん底を感じていた頃にどこかゆるみを感じさせてもらえたのも、いまの私があるのも、私と関わってくださる縁あるひとりひとりのみなさんがいてくれるからこそです。

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(photograph : 飯塚 麻美

私がいろんな人から受けたやさしさは直接返す形でも、違う人へでも、場所や物事でも、私なりになにかを還元をすることで恩返しになればいいなと思っています。縁と恩の循環ができたら、最高だなと。

また、普段なにげなく海にいますが、すぐそばの海は一歩間違えれば人間にとっての「死の世界」。実はそういう場所に立っている。何年か前にお世話になっている人が海の事故で生死をさまよう出来事があってから、陸と海を渡す船は生と死の境目のようだと思っています。

普段私がいる内湾は湖のように波もおだやかだし、ボスたちとともに安全に作業しているから当たり前のように日常を送れているけど。
なにか事故が起きたり判断を誤れば、もしかしたら死ぬことだってあり得るのが海です。その場の状況判断や臨機応変さ、感覚とともに全体を把握して見ること。このあたりはほんと大事なこと。

ボスたちや周りの方々のサポートがあってこその私ですが、3年内を目標に自分で形にできるように精進していこうと思います。

ちなみに、同じ漁港内にいてわかめ資材を譲っていただいた漁師さんからは「5年は辞めるなよ〜」と言われました。体がおかしくならない限りは続けます。体が資本なので、体調にだけは重々気をつけていきたい…!

これから、いままでとはすこしだけ違う道を進みます。
6年半前に陸前高田に来てはじめて海の仕事をしたときのように、また私の中ですこし未知な道を選びました。

よくわからないことを楽しんで、進んでいけるように。
ひとつひとつの物事をしっかり吸収して、やっていけたらと思います。

全力で燃えながら、30代のはじまりをとにかく楽しむぞ。





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三浦 尚子 / Hisako Miura / ura
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