目の前で起きていることに対して仕事がしたい
ちょうど1カ月ぶりのnote投稿。前回書いた後、ちょっとお休みしたら、なかなか書く習慣が戻らなくて。ちょっと頑張りすぎていたかもしれません。今日はあまり根をつめずに、ゆるく書いてみようと思います。
***
1月末から、介護職員初任者研修の講座に通い始めた。これは介護を仕事にするための入門的な講座。週1回のスクーリングで5月に修了する予定。資格を取ったら、訪問ヘルパーとして週に何日か働いて、自宅で教えるアレクサンダーテクニークのレッスンと両立できたらと思っている。
介護の仕事を選んだのは、母の看取りを体験したことと、本業のアレクサンダーテクニークを仕事として生かせるということがある。どちらも人を相手にする仕事で、何が共通する価値観だろうと自分の心の中に探って探ってたどり着いたのは「いま目の前で起きていることに対して、仕事がしたい」という想いだった。
私は大学を卒業してからほとんどの間、会社勤めをしてきた。何度も転職をして、正社員だったり派遣社員だったり契約社員だったり、大きな会社だったり小さな会社だったり、色々な業界を経験したけれど、そのほとんどがデスクワークだった。資料を読んで文章をまとめたり、Excelで表や書類を作ったり。どんな仕事も一生懸命やったし、私なりに社会に貢献してきたとは思う。
でも何ていうか、あくまで私の個人的な思いだけど、どこかこれは本当の仕事じゃないなあという気がしていた。現実感が希薄…とでも言うのか。仕事といっても、誰かが始めたことのお手伝いをしているだけという感覚が強くて。
私の働きは巡り巡って社会の役に立っていたとは思う。けれども実際にその現場を見ることもないし、直接声を聞くこともないから、誰かの役に立っているという実感がわかない。そう思うと、希薄に思えたのは現実感というより、当事者意識なのかもしれない。
以前の記事でも書いたことだけど、私は母の末期癌が分かって、看取りをするために会社をやめた。会社員であれば普通はこういうとき、母を入院させて仕事を続けるものだろうし、自宅で介護をするなら退職ではなく休職する選択肢もあったけど、私はどちらも選ばなかった。母の命に終わりが近づいているのを見て、我に返ったように希薄だった何かが一気にハッキリとした。今が生き方を変えるタイミングだと思った。
介護生活を始めてしばらく経って、引継ぎのために出社したときのこと。久しぶりに会社に行ったら、見慣れた職場風景に言いようのないショックを受けた。私の目に入ったのは、みんなが机に向かって黙々と仕事をしている姿だった。それはまったくいつも通りの風景だったけど、介護を始めたあとの私には、異様なものに見えてしまったのだった。人と人が同じ空間にいるのに、お互いの顔も見ず、ひたすらパソコンに向かっていることに。
なによりつらかったのが、家に病気の母親がいるのに、引継ぎ書類を作るために出社している自分だった。今その瞬間に切実に自分を必要としている人がいるのに、会社に来て今すぐやらなくてもいい仕事をしている。周囲に自分の状況を伝えて理解してもらってはいたけど、その切実さに対して、周囲と私の間に根底のところで温度差があって、仕方のないことだけど悲しかった。
それから約2年。新型コロナの流行で、エッセンシャルワークやケアワーカーの大切さが注目されるようになって、私の個人的な想いと社会の変化がシンクロしているようで、不思議な気分がしている。ちなみに私の弟も昨年の秋に福島に移住して、今ハローワークの農業研修に通っている。都会のサラリーマンよりも農業の方がずっと面白いらしくて、収穫した野菜を持ったドヤ顔写真を送って自慢してくる(笑)。
こうして2年前を思い返してみると、当時は想像もしなかった変化が起きている。なんだか、この何年かで人の意識が急速に変わっていくのではないだろうか。人の意識も働き方もより本質に回帰していくような、そんな予感がしている。
今日の夕暮れ。もうすぐ春だねえ。そして、今日もやっぱりゆるくは書けなかったな。