ひとりの夜の愉しみは

 ひとりの夜の愉しみは、まずは一本の缶ビール。量は少なくとも良い。350ミリリットルの缶で良いから、スーパードライをスカッと飲み干したい。冬なら濃厚なアサヒ黒生を。
 つまみはでん六の(わさび入)柿ピーがベスト。柿ピーなんてどこでも作っているけれど、やっぱり豆はでん六に限る。
 こうして一日の疲れを軽く癒してから、ワインまたは冷酒(どちらも安物で、特にブランドはない)をちびりちびりと飲んで夕食をとる。この夕食が毎夜のごとくコンビニ弁当というのが情けないけれど。
 さて、食事そのものは貧しくとも、雰囲気だけは優雅そのもの。何たって毎晩コンサートなんだから。ということで、次なる楽しみは食事をとりながらのCD鑑賞。
 若い頃は指揮者や演奏家にこだわってレコードを買っていたぼくも、最近では音楽そのものを聴くようになって、だから、たとえば隔週発売のデアゴスティーニのクラシックコレクションで十分満足できる。値段も安いから気軽に買えるし、解説も意外に充実していて、曲だけではなくて作曲家の暮らしや時代背景もよくわかる。今気に入って毎日聴いているのがレハールのオペレッタ「メリー・ウィドウ」。特に第三幕の「唇は黙して」は素晴らしく……あ、今流れているよ、この曲が。メロディーの美しさが、優雅さが、仕事でざらついたぼくの心を癒すようにしみ入ってくるよ。
 この間に、単身赴任者の心得として自宅に電話を入れるのも忘れちゃいけない。何たって子供たちの元気な声は明日の活力の源なんだから。ぼくたちの最大最高の財産なんだから。会えなくとも、声だけは聞かないとね。
 そしてぼくは、本を手に取る。本のない人生なんて、人生を語らない本と同じで退屈だ。
 今、ぼくの傍らにあるのは『森有正全集』の第一巻。森が自分の文体を発見した最初の著作、「バビロンの流れのほとりにて」「流れのほとりにて」が収められた一冊。彼の出発点であり、振り返ってみれば到達点でもあったかのような、読み返すたびに新たな発見と思索を呼び覚ます、ぼくにとっての聖書。裏表紙の見返しには一九七八年七月二八日読了とあるから、もう二十年以上も読み続けていることになるのかな。

 僕のすべきことは、この生活を護り抜き、生き抜き、そして死ぬことなのだ。本当にそれだけなのだ。何か僕のあとに残るものがあるとしたら、それはこの生活の樹木から熟れきった果実が落ちるように、何かが落ちるものだけなのだ。

森有正『バビロンの流れのほとりにて/流れのほとりにて』(森有正全集1)、筑摩書房

 熟れきった果実は落ちる。もぎ取らずとも。だから、ぼくたちが成熟することが全てだ。

 日本には本当に終結した過去があるだろうか。(略)過去が終結していないということは、過去を本当に現代の中に生かすことができない、ということだ。(略)完全に終わった過去のみが未来に向かって流れ出すのである。

前掲書

 日本文化はあるけれども、日本文明はない? 何となれば、始まりと終わりがあるのが文明で、文化には明確な終わりがないからだ。金魚のフンのようにダラダラと引きずるのが文化というものか。
 森はまた別のところで〈過去は未来である〉とも書いているけれど、ここに、日本の未来があらゆる意味で(すなわち政治的にも文化的にも科学的にも経済的にも)明瞭なものにならない、決定的な理由の一つがあるような気がする。

 おやおや、いつの間にか夜も更けて、もうお風呂に入る時間かな。お風呂嫌いなくせに、毎日よく入るよ。じつはコレ、お風呂そのものよりもお風呂上がりのポワポワ〜ンが好きなんだね。半分ボーっとしながらまた本を読んだり、ヨーグルトを食べたり(昔明治のブルガリア、今雪印の毎日骨太)、たまにはビールをもう一本飲んだりするのが、ひとりの夜の最後の愉しみ。こうして今日も、ぼくはまた夜更かしの泥沼にはまっていく……。
 って書くと、何ともノーブルな生活だけど、誤解しないでね。こういう日もあるということで、もちろん自堕落な日々もあるんだから。ひとりの夜の愉しみは天国から地獄まで、そして天使からサタンまで、ということさ。おやすみなさい。(99.5.6)

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