hisahisa67

山形県鶴岡市在住。1955年生。森有正、茨木のり子がテーマ。

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マガジン

  • 山荘に夏が来る

    海辺の小さな町の丘陵の片隅に、両親が土地を求めて建てた別宅、閑々荘。その記憶を綴るエッセイ集。

  • 新編 木漏れ日の下で

    1999年に発表した電子ブック『木漏れ日の下で』(FDに収められたttzファイル。2001年には増補改訂版を『ひとりの夜の愉しみは』として発表)の新版を編もうとする試み。今日まで書き散らしてきたテキストを取捨選択し、再編集します。

  • 茨木のり子ノート

    詩人・茨木のり子について今まで書いてきたテキストのまとめです。 かなり以前のものもありますが、ご容赦。

  • 森有正資料室

  • 藤沢周平について

最近の記事

黄金のカブトムシをさがして

 「夏休み」ってゲーム、知ってる? 正確には「夏休み──『黄金のかぶと虫』をさがして…」(株式会社インスパイア、1991年)。四半世紀以上も前に発売された、マッキントッシュ・パソコンで動作するハイパーカード・スタック(ハイパーカードというソフトウエアで作られた書類)だ。今の感覚ではゲームというより絵本に近いのかな。全て白黒二値画像だけれど、泉原あきひとさんのグラフィクスがとてもスマートで、福寿さんの音楽も明瞭にして簡潔、ぴったりハマっていた。  「夏休み」のアイコン──ハイ

    • オジさんの愛は終わらない

       自身をギルバート・ブライスに擬していた小学校時代、アン・シャーリーが誰であったかは極秘事項だけれど、ギルバートになりきって憧れることができるのは男の子の特権でした。  ここには、いつも希望を見失わないアンの魅力が凝縮されています。それは生き抜いていくための知恵でもあったのでしょう。彼女の想像力は魔法の杖ですね。アンにかかれば野宿に選んだ桜の木の上も大理石の広間に変貌します。挫折も困難もなんのその。  さて成長すれば誰にだって、大人社会の酷薄さがわかろうというもの。そんな

      • 電子書籍はステキだ──中高年の味方としての電子書籍

         電子書籍元年と騒がれた2011年。でもどうだろう。あたりを見回しても、あまり親しんでいそうな人は見かけませんね。それどころか、とりわけ年配の読書家からは胡乱なヤカラと見做されている気配も。ぼくは残念でならないのです。だいいち勿体ないでしょう。電子書籍は中高年こそ使いこなすべきものなのに。なぜって、それは──。  一つ。文字の大きさが自由に変えられる。50も半ばを過ぎてぼくも小さな字が見えなくなったけれど、電子書籍は文字サイズが可変です。読みやすい文字の大きさは、明るさや環

        • ふみや書店があったころ

           思いっきりローカルネタなんだけど……。  ぼくが中学から高校のころ、友人との待ち合わせ場所はいつも鶴岡市の中心部にある「ふみや書店」だった。  昭和四〇〜五〇年代の土・日、そして学校が春休みや夏休みに入ると、ぼくたちはよくふみや書店に集合したものだ。それにしても何故に本屋さん?  それは、なんたって本屋さんは飽きることがない──さまざまな本や雑誌が手に取り放題。それに本屋さんは安全だし──アブナイひとは本屋さんなんかに立ち寄りません。そしてなにより本屋さんは健全──古

        マガジン

        • 山荘に夏が来る
          1本
        • 新編 木漏れ日の下で
          159本
        • 茨木のり子ノート
          23本
        • 森有正資料室
          2本
        • 藤沢周平について
          5本

        記事

          問われているのは既成メディアの存在意義か

           政権の存亡をも賭けた様な「小沢VS検察」バトル。ただの金権疑惑とも取れるし、権力闘争にも見える。佐藤優さんや田原総一朗さんなどは後者だと指摘しているようです。早晩事の本質は明らかになってくるでしょうが、ぼくが特に今回気になっているのは、大手既成メディアの報道ぶりなのです。  今までの報道を見聞きすると、既成のメディアは殆ど金権疑惑を表に出して、そしてその裏付けは検察サイドの情報、リーク情報のようです。佐藤さんや田原さんのような分析は、主にネット情報で自ら収集するしかありま

          問われているのは既成メディアの存在意義か

          ぼくたちの問題

           朝刊の見出しに「辺野古提示し陳謝」とあります。現行案にほぼ戻る、と。  同じならなぜ事を荒立てた、と批判する向きもあるでしょう。この問題は「無関心」であり「無関係」であったぼくたちの心に傷をつけました。でも、敢えて前向きに考えるなら、結果はどうあれ、沖縄から遠いぼくたちにとっては、傷ついたことが大切なのです。傷はいやでも見えるし、見ることを強いるから。  その傷が疼きだし、癒すにはバンドエイドを貼るだけでは駄目だと考える人が必ず出てくるでしょう。〈米軍普天間飛行場移設問

          ぼくたちの問題

          おやじのせなか

           おそらくぼくたちは、誰かと出会うために生きている。逆に言えば、ぼくたちは必ず出会える。どこかで、だれかと、いつの日か。指揮者・小林研一郎さんが「おやじ」さんと真に出会ったのは葬儀の当日、父を送る、旧友の読む弔辞を聞いた瞬間ではなかったか。(「おやじのせなか」、朝日新聞朝刊・教育面、11月8日付)  音楽にのめり込む小林少年にとってお父さんは頑固な壁。〈レコードを聴くことを制約し、約束を破ると井戸に逆さづりにした〉というから、すさまじい。なぜあれほどまでに反対されたのか、長

          おやじのせなか

          やはり原画はすばらしい

           やはり原画はすばらしい  「詩人 茨木のり子の贈物 ─山内ふじ江が描く『貝の子プチキュー』絵本原画の世界─」展に行ってきましたが、やはり原画はすばらしい。  あのマチエール、そして大和絵を彷彿させるような、それでいてクリムトをも想起させるような鮮やかな色彩は、印刷では到底再現できる筈がありません。  「絵本」といってもかなりはテキストが主で、絵はそれを補うもの、音楽で言えば伴奏のような従者の役割か。しかし『貝の子プチキュー』は違うのです。絵と文章があたかもコンチェルト

          やはり原画はすばらしい

          懐かしい『鳥かごの詩』

           北重人さんの『鳥かごの詩』(小学館)を懐かしく読みました。懐かしいというのは、ぼくも学生時代の一時期、主人公康夫のように新聞販売店に住み込みで働いていたことがあるからです。都合二年にも満たない期間だったけれど、あの日々の印象は強烈で、良い意味でも悪い意味でも今日のぼくがあるのは新聞屋体験のおかげです。  個性的な面々が顔を揃えた店にやくざのタケシが康夫を探して現れた時、仲間たちはそれぞれに康夫をかばい、タケシに相対する。社会の吹きだまりにおし込められているような彼らが、て

          懐かしい『鳥かごの詩』

          青春は終わる

           「青春は終わる。いつまでも続くわけじゃないわ」。つい三週間ほど前、私は研究室で四、五人の学生たちと話していました。がっかりした表情を見せる無邪気な学生たちの中でひとり、「ほんとうに?」と小さく聞き返す学生がいました。「ええ、きっと。もう少しよ。あと二、三年か数年か」。にぎやかな学生たちのかげで、彼女がひとりこっそり涙をぬぐったのに私は気がつきました。  胸詰まる小さな挿話。……このような人とこそぼくは出会いたい。(2008.12.18)

          青春は終わる

          粕谷正一展を観て

           昨日、お昼休みを利用して鶴岡アートフォーラムに行き、「粕谷正一展」を観てきました。彼はぼくの高校時代のクラスメートで、現在石川県で高校教師をしながら二科会の会員として活躍する洋画家です。  全体を見渡すと、確かな描写力と、種々雑多なモチーフを見事にまとめあげる構成力に関心させられます。  現在の作風は意外に早い時期から始まっていたようですが、もちろんその中にも変遷はあります。色彩的にも変わっているけれども、一番は空間表現でしょうか。一時はかなり平面的・装飾的だった(その

          粕谷正一展を観て

          細谷亮太先生

           「暮しの手帖」を読んでいるので、小児科医の細谷亮太先生のことは知っていました。琴線に触れる文章を書かれる方です。お人柄が伺えるような。でも『NHK知るを楽しむ人生の歩き方 2008年6・7月』に収録されたインタビュー記事にはあらためて感動しましたね。  すばらしいのは、先生が一人一人の患者(小児科医ですから皆小さな子供たちであり、またその親御さんたちなのですが)にきちんと寄り添い、その人生に向き合っていることです。  すべての事例(症例)、すべてのお話が得難いものだけれ

          細谷亮太先生

          図書カード

           図書館で読んだ本の図書カードに、自分よりいつも先に同じ名前が書いてあるのを見つけてしまう主人公のシーンが印象的な、アニメ作品「耳をすませば」。昔は確かにカードで書籍が管理されていて、誰がいつ借り出した本なのかが残るのでした。今は、特に大きな図書館では履歴はコンピュータの中にしか残りませんね。  さて先日、市立図書館から森有正の『思想の自由と人間の責任』(日本評論社)を借りてきましたが、まさしく古書の趣。全体が変色してシミだらけ、開くと書き込みまであります。それに、最近では

          図書カード

          アノ時代を振り返る

           『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』(岡田芳郎)を市立図書館から借りてきました。東北の人間は地味でおとなしく、コツコツ働くことだけが取り柄のような印象がありますが、なんのなんの、規格外の人間もいるのです。写真家・土門拳なんかもそうでしょうけれど。  昔、亡くなった母から、休みの日にはグリーンハウスで洋画を観たという話を聞いたことがあります。佐藤久一が支配人だった頃のことでしょう。母の実家は酒田にあり、女学校を卒業してすぐ

          アノ時代を振り返る

          ウィンディ・ストリート

           サラ・パレツキーの『ウィンディ・ストリート』を読了。やっと、という感じです。本が読めなくなりましたねぇ。まず字が見えない。あまりぼんやりするので眼鏡を取ると、裸眼の方が見える。でもこの状態で長時間の読書は辛すぎます。そろそろ読書用の眼鏡が必要なのでしょう、きっと。  出だしはいつになくゆったりしていた『ウィンディ・ストリート』ですが、半ばあたりからは例によって息もつかせぬ筆致、怒濤の展開。面白く、時に怖かったです。  終章、盟友ロティが主人公V.I.ウォーショースキーに

          ウィンディ・ストリート

          バランス

           23日朝刊。天声人語氏の語るところはいつものように冷静で、バランスのとれたものでした。これはこのコラムに限らない「朝日」の美点で、煽ることの多い他紙や映像メディアとはおおいに異なるところです。  氏はまず、山口県光市で9年前に起きた母子殺害事件被害者の夫に触れて、「煮えたぎるものを、これほど静かに、強く語れる人を知らない」と綴ります。続けて、NHKと民放の放送倫理・番組向上機構(BPO)の指摘を引くのです。  そして最後に、国民の大多数が満足するであろうところの極刑とい