ベートーベンは苦手

 ショスタコ熱再燃か!?

 今年の夏、ピアノ協奏曲第二番第二楽章を「発見」してから、ショスタコーヴィチをよく聴いています。学生時代にハマったのが最初でしたが、何しろあのころはムラヴィンスキーがいた。作曲家より指揮者にハマったのかも。

 社会人になってからはあまりショスタコーヴィチを聴く機会がありませんでしたね。一種悲劇的な口調を持つ彼の作品は心がリラックスできるようなものではなく、音楽に癒されたいぼくには苦痛なものでした。諧謔はうるさいだけだし、革命讃歌は嘘っぽい……。それがねぇ。

 Op.102に参りました。息苦しくなるほど切なく、美しいメロディ。感傷的といわば言え、こんなに心を優しく撫でさすられては、誰だって夢心地になってしまう。ショスタコーヴィチは交響曲第五番第三楽章の独創性を自慢にしていたと聞きましたが、Op.102の破格の美しさも、彼ならではの透徹した哀しさをたたえています。Dmitri Alexeevのピアノがまた、いいなぁ。

 さて、先の日曜は市内のスタジオで大瀧実花先生の小さなコンサートがあり、夫婦で行ってきました。「先生」と呼ぶわけは、今は離れましたけど我が家の娘たちが幾度かレッスンを受けていたからです。

 プログラムはベートーベンのピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」を中心とした苦手な作曲家の盛り籠。いえね、ぼくだって昔はベートーベンが好き──というか、人並みにベートーベンからクラシックに入ったのですよ。つまり交響曲全集を揃えるところから始まったのだけど、年を経るにつれ、積極的には向き合わなくなりました。巌のような彼の音楽に堪え難くなってきたんですね。

 森有正がどこかで、夏目漱石を読んだときに感じる抵抗感のなさを、否定的に語っていたように思います。同質感の危うさ。それは確かに心地よいけれども、創造の源泉とはなり得ない。抵抗とか葛藤とか、とにかく、ぼくの前に立ちはだかるものこそがぼくを成長させてくれる。そういうことなのでしょう。

 とすれば、ぼくがベートーベンに耐えられなくなってきたというのは堕落なのかもしれません。あるいは敗北であると。でもあえて言うならば、ぼくは毎日、違う世界で戦っている。家に帰ってまで戦い続けるわけにはいかない。いや、戦いはあるのだけれども、すべてに戦うわけにはいかないじゃないか。だから、突き刺さるのではなく旋律は歌ってほしいわけ。惻々と心にしみいってほしい。それがぼくにとっての音楽。

 さすがにまだ「わび」「さび」までは浮世離れしませんが、それでもかなり弱ってきたぼくに、親しみを覚えさせてくれたのが「ワルトシュタイン」の第二楽章「Adajo molto」でしたね。さすがアダージョ。湿気のせいかあるいは傷んで手を入れたというピアノの不安定さのせいか、やや音が金属的に響いたように感じたのは残念でしたけれど。心に優しいのは丸くソフトな音です(Dmitri Alexeevのピアノタッチのまろやかさ!)、って、それじゃあベートーベンにならない!?

 しかし全体として、聴きごたえは十分なものでした。前からほかのピアニストと比較して感じていましたが、大瀧実花先生のタッチは強靭でしかも音が粒だっています。ピアノを存分に鳴らしてくれ、小さなオーケストラを実感させてくれます。天井の低いサロンよりも、いま少し大きめのホールで聴きたいプログラムでしたね。(2007.12.03)

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