お休みどころ

白っぽい街道すじに
〈お休みどころ〉という
色褪せた煉瓦いろの幟がはためいていた
  (中略)
無人なのに
茶碗が数箇伏せられていて
夏は麦茶
冬は番茶の用意があるらしかった
  (中略)
「お休みどころ……やりたいのはこれかもしれない」
茨木のり子「お休みどころ」より

 かつて参加した朗読会でぼくが選んだ茨木さんの詩は、「行方不明の時間」でした。「すべては/チャラよ」の啖呵も鮮やかな。
 前職は営業職。もとより内向的なぼくに、お客様という神様相手の苦しい日々が続きます。積み重なる重圧を、この詩を読むことで昇華させていたのかも。
 定年から程なくして今の職を得て。相変わらず人間相手の仕事ながら、地域に寄り添う毎日に然迄ストレスは感じません。とはいえ今や歳を重ねて現役引退間近の身の上。だから時に反芻するのです。ぼくが本当にやりたかったことはなんだろう?
 「お休みどころ」という詩の中で、十五歳の少女・茨木のり子は煉瓦いろの幟を見てぼんやりと考えます。「やりたいのはこれかもしれない」。夏は麦茶、冬は番茶の用意がある、無人なのにどこか人の気配が漂うお休みどころ。
 齢六十七のぼくは考えます──ぼくがやりたかったのも、これだったかもしれない。失敗ばかりの人生だった。それでも最後にお休みどころの幟を立てることが出来たら、少しは癒しになり、償いにもなるだろうか、と。(2022.11.17)

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