モワ・ズバを考える
モワ・ズバ、ご存じだろうか。
いや、ご存じないでしょうね。
ネットで検索しても出てこない。
その言葉がはじめて発せられた日は、私のホームページのとある記事に記されている。
それは2000年3月24日。
それは私がその記事を書いた日なので、実際にその言葉が発せられたのは、それより前の日付なのかもしれないが、まあ二、三日の誤差です。
それはいまや懐かしい「Zoomイン朝!」というテレビ番組。そのイチコーナーで、これも懐かしい「チョコエッグ」と食玩の菓子がとりあげられていました。
そのオマケというか、主となる食玩が「日本の野生動物」で、非常に精巧につくられている、というのが話題となっている頃でした。
番組ではこの動物フィギュアの型を彫ってる「彫刻家」?らしき人にインタビューするということなんだけど、写真とか参考にして彫るんですかという質問に、「いや資料はぜんぜんみない。オレのモワをバッと入れて彫る」ということで、これが「モワ、ズバ」として心に残り、記録していたわけです。
これが今思えば、海洋堂さんだったと思うんだけど、海洋堂さんが造形家として凄い、ということは世に伝えられましたが、この「モワ・ズバ」という言葉が伝わっていないのは悲しいことです。
たしかに「オレのモワ」では伝わりませんが、モワ〜としたイメージを「ズバっ」と対象(彫る素材)に投入し、それを掘り出す、というのは、その時の記事にも書いてますが、まさに漱石『夢十夜』の運慶の話そのもの。
運慶の話ってのは、運慶が「すごい」と漱石に言われて「いや、木の中に埋まってる仏像を彫り出してるだけなんで」と言われるやつですね。
その記事では、ちょうどその時に読んでいた上野千鶴子さん関連のエッセイに、モワ・ズバとシンクロするような話が書かれていたということが書いてあったという話になってます。
学問とは何かって話なんですが、直観によって「もや〜」っとした言葉にならないイメージでものごとの本質を掴んだら、それを言語化し、他人にもわかるように明確化していく。それが勉強ということだというわけですね。
まずは、この「モワ」がなければ始まらない、しかしそれを明確にするには、学問という技術が必要ってこと。これは職人技でも同じことで、単に技術をもっていても技術がなければそれを作品に仕上げることはできず、かといってそもそものモワがなければ、人を感動させるような作品はできない。
と、いうような話が、2000年にあったわけです。
このときは、私が若いということもあって、「モワ―ズバ」の関係を自分の中の、発想的イメージと結果としての作品」という関係でのみとらえていましたが、いま、この話をふりかえってみれば、大事なのは、この「モワ」は、自分のというより、他人の中にあるイメージなんじゃないかと思えます。
とくにここで「哲学」ということを改めて考えるに際して、このことが重要と思えるわけです。
というのも、世には哲学を日常的な言葉で表現することで、分かるものにしようという試みがあるわけですけど、言葉がわかりやすければ、哲学が分かるというものではない。そういうテクニカルなことではない。
そうではなくて、誰かが、というか誰もが、それこそモワと思い抱いていることに、ズバッと言葉を与えてみせる、ということが肝心ってことです。というより、モワ・ズバって言葉それ自体が、ふだん人々がものをつくるときに漠然と思い描いているイメージに明確な「言葉」を与える、ということになっているわけです。
誰もが思い描いている、、と言いましたが、もっといえば、誰も思ってもいなかった、モワ、を生じさせて、そこに明快に言語化された「解答」をズバッと与える。
これこそが哲学の醍醐味なんじゃないか、と思います。『伊丹堂のコトワリ』の第三章、「美ってなんなんだ〜」で語ってる「普遍性」というのは、
そういうことになります。
モワ・ズバが時を経て、美と普遍性の話につながる、ってことで。
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