三性説の最後に、世親(ヴァスバンドゥ)の三性説を見ていきたいと思います。世親は『唯識二十論』等において、表象主義的な唯識論を展開していたため、おそらく無著(アサンガ)と同じく有形象唯識論側な唯識観を持っていたと思われます。
依他起にとって、遍計所執がなくなった状態が円成実であると世親(ヴァスバンドゥ)は考えているため、この点は無著(アサンガ)の三性の解釈と同じであることが分かります。
・遍計所執性(妄想されたもの)
=認識において、現れるものが如何に現れるかという様態
・依他起性(他によるもの)
=認識において、現れるもの(現れる主体)
・円成実性(完全に成就されたもの)
=現れるものとって、かの現れた様態が全く存在しなくなった状態
=変化するという性質がないもの
・遍計所執性(主観と客観との二つのもの)
=本体として実在性がある主観と客観との二つのもの
・依他起性(真実ならざる分別)
=主観と客観との二つのものとして実在しないもの
・円成実性(完全に成就されたもの)
=真実ならざる分別の本来の在り方=法性=二つのものの無
依他起=真実ならざる分別(虚妄なる分別)とは心、即ち阿頼耶識と七転識(末那識・六識)を指します。この点は弥勒や無著と同じですね。
・異熟的なもの=阿頼耶識=根本識
・原因的なもの=末那識=転識
・顕現的なもの=六識=転識
・転識の相分(所取)=見られるもの
・転識の見分(能取)=見るもの
・遍計所執性(主観と客観との二つのもの)
=言語的表示(本体としての妄想されたもの)
=遍く知るべきもの
=遍く知るとは執着された(本体としての)主観・客観を見ないこと
・依他起性(心=阿頼耶識と七転識)
=言語的に表示する主体(本体を妄想するもの)
=断ずべきもの
=断ずるとは心の中に二つのものが現れないこと
・円成実性(法性・法界=二つのものの無)
=言語的表示の除去されていること
=得るべきもの
=得るとは二つのものの無と見ること
唯識派が認識論的な見解によって二派に分けれた経路は以下のようではないかと筆者は考えています。
▼無形象唯識派:弥勒 →(世親)→→ 徳慧 → 安慧 →
↓
▼有形象唯識派:無著 → 世親 →→ 陳那 → 護法 →
「仏教認識論」は中観派と唯識派の教えが一つの修行体系として統合していく過程で重要になっていきます。