【大乗仏教】空の思想 切断するものとしての金剛石
般若経典の一つである「金剛般若経」には、「空」や「大乗・小乗」のような言葉が登場しません。そのため、「八千頌般若経」よりも先に書かれたのではないかとする説もあります。「金剛般若経」では独特な言い方で「空」が表現されています。
※大乗仏教の経典にも釈尊が登場しますが、大乗経典が執筆された頃は既に故人となっているため、学術的には直説とは考えにくいです。しかし、科学を超えた世界観も考慮する場合、大乗仏教徒の中で釈迦如来と通じた修行者がいたという見方もできると思います。
《智慧の完成》という用語は今回ひとまず置いときまして、経典の中で何度も繰り返される以下の言い回しに注目したいと思います。
経典中において、{X}には「功徳を積む、目覚めた人の理法、尊敬さるべき人、体、智慧の完成、大地の塵、世界、真理だという思い、心の流れ、特徴をそなえている、原子の集合体、はてしない宇宙」等、様々な言葉が当てはめられています。
これをまともに論理学で考えると、「{X}は非{X}である。故に{X}は{X}である。」となり、意味が通りません。これは足りない言葉を以下のように継ぎ足すだけで、意味が通る文章となるのです。
つまり、{X}の背景に{X}という法体(固有の本体・自性)が存在しているわけではなく、固有の自性を有さない諸要素が因縁によって集結・離散することで{X}が成立しているに過ぎない、仮の{X}ということです。要は説一切有部が説く「五位七十五法」(七十五種類の固有の自性)等を否定しての表現だと考えられます。しかし、金剛般若経中におけるこの表現は大乗文教の「空」の概念を知らない人が見た場合、おそらく違う意味に解釈されてしまうでしょう。分かりやすい表現方法にした方がよかったのではないか?とつい疑問を持ってしまいます。ちなみに、この表現中における「如来」とは以下のように説かれています。
上記の内容を踏まえ、経典の最後に説かれる以下の真言(マントラ)を見ると、「金剛般若経」の「金剛」の意味が明らかになります。
「金剛般若経」や「八千頌般若経」はアートマン、プルシャ、ジーヴァ(個我)のような主観的な本体を認めません。そして前述のように、有部が説く五位七十五法のダルマ(法体)のような客観的な固有の本体も認めません。つまり、切断するものとしての金剛石が切断する対象とはこのような本体と現象を結びつける思想であると考えれます。
しかしながら、大乗仏教は本当に如何なる「本体・自性」をも認めなかったと考えてよいのか?筆者は疑問を感じます。
○大乗仏教の「空」の使い方は3通り?
初期の頃の大乗仏典で使用される「空」は主に①(僅かに③含む)と解説されることが多いですが、②ではないかと筆者は考えています。
③は主に中期大乗仏教の如来蔵系の経典や唯識派(特に無形象唯識派)において顕著に見られます。③は中身を検証すると、アートマン(真の自己)と瓜二つですが、違うものであると説かれます。