【大乗仏教】心相続
〇説一切有部の心相続
唯識派の思想に入る前に、説一切有部と経量部の「心相続」について触れておきたいと思います。さて、説一切有部の心相続(心法の相続)の大まかなイメージは下の図のようになります。
心(心法)もまた、刹那滅(生じてはすぐに消滅)です。ただし、有部における法体(ダルマ)の刹那滅は、あくまで「作用」の刹那滅であり、「本体(基体)」は常住です。経量部は有部のように法体を本体と作用に分けることはせず、また永遠の本体という説を否定します。即ち、本当の意味での刹那滅を経量部は主張するわけです。
有部の説において、心法には必ず、心所法が相伴って生起・消滅するという決まりがありました(経量部は心法と心所法に分けずに同じものとします)。未来領域(未作用状態)には、煩悩の心所法のみでなく、善、その他の心所法も存在しています。それらのうちで、特定の心所法が現在領域に生起する心法に伴うのには、潜勢から現勢へというのとは異なった他の要素が働くと有部は考えます。直前の心は現在の心を生起させる因(縁)となりますが、後者の性質(善・悪・無記)を決定する要因ではありません。そこで登場する法体が得(獲・成就)という心不相応行法でした。「得」によって、その心法にどの性質の心所法が結合しているかで、心法の性質が決まります。
上の図は、かなり複雑な「得」を単純に示しています(本得や随得といった関係を完全に省略しています)。「得」のうち、「随得」が三世の「本得」同士を結びつけているとされています。
心所Aが煩悩(悪)であれば、心Aは悪心となりますし、逆に心所Aが善であれば心Aは善心となります。仮に、心Aが悪心であっても、次刹那の心Bは心所Bが善であれば、善心となるため、悪心の直後に善心が生じるメカニズム、その逆のメカニズムも「得」の働きで起こるということです。
そして、例えば、煩悩(悪)の心所法は、心に伴って未来の領域から現在に生起し、一瞬後には過去の領域へと去っていきますが、あくまでそれが現在へ生起した時のみ心は汚れ、悪となるのであって未来領域にある煩悩が未来や現在の心を汚すことはありません。
○経量部の種子説
経量部は有部の「得」説を否定し、善や煩悩の心法が現在に生起してくる原因を説明するために種子の学説を立てました。種子には三種類があり、善心の種子、悪心の種子、無記の心の種子です。
種子とは既に過去の領域へと去った心法が、個体を構成する存在要素の流れ(有情=身心の法体集合体=個体)の中に残した余習であり、時が至れば種子から芽が出るように現勢的になる可能性をもった潜勢力です。経量部が種子説を立てた理由は、同一の心の流れにおいて性質を異にする二つの心が継起するという事実を説明づけるためであったと言われています。有部と異なり、経量部は心法と心所法を分けて考えずに同一とし、心不相応行法を否定します。例えば悪心の直後に善心が生ずる場合、この善心は直前の悪心を等無間縁としますが、生じた心の性質を善に決定するのは等無間縁ではありません。そこで、個体を構成する存在要素の流れの中に善心の種子があると想定され、それが現勢化して善心となると考えられたのです。直前の悪心は機能すると同時にその余勢を種子として存在要素の流れの中に置くのですが、その種子は必ずしも次の瞬間に結果として熟するとは限りません。悪心を生ずる能力のみを持っているその種子は善心が生ずる時には存在要素の流れの中で眠ったままの状態にあります。経量部の学説によれば、身体的・言語的行為はそれ自体では善でも悪でもなく、善心・悪心に伴われる限り、善・悪の性質を帯びるとします。心の行為が業の本質をなすとします。そして善業・悪業はそれぞれ楽・苦と感受されるべき境遇を、未来世に結実させます。
○世親(ヴァスバンドゥ)の異熟識
繰り返しになりますが、種子とは既に過去の領域へと去った心が個体を構成する存在要素の流れの中に残した余習であり、時が来れば種子から芽が生じます。種子は個体を構成する存在要素の流れの中に置かれているとされます。世親(ヴァスバンドゥ)は「得」を否定する際にも、経量部の種子説に基づいて論じています。煩悩を既に断ち切った聖者と煩悩を未だ断ち切っていない凡人との区別は、その心が煩悩の「結合」を離れているか離れていないかによるという有部に対して、世親は両者の相違を、個体を構成する存在要素の流れの中に煩悩の種子があるかないかという点に見出しました。
それでは、種子を現勢化するまで保持していくものは、心法であろうか、感覚器官(色法の感官)であろうかという点について、経量部内部にも見解の相違があり、一部の者は種子は心によって保持されると考えたのですが、この説には難点を伴います。何故ならば、無想定・滅尽定に入った時には心の流れはいったん停止して、無心の状態になるのですが、瞑想を中止すれば心は再び生じてくるからです。そこで、一部の者は種子を感覚器官と心との両者によって保持されるという見解をとりましたが、一つの結果に対する主要な原因が複数であるということは有り得ないとの反論もありました。ここで世親は「成業論」において、通常の心の根底に未だ現勢化しない心の種子を保持する識の存在を想定しました。この識は異熟識と名付けられます。
この異熟識が種子を保持しつつ、瞬間ごとに継起して流れを形成し、やがて種子が成長して結果を生じ得る状態になった時、識の流れに特殊な変化が起こり、種子が現勢化します。
上の図における「世親の経量部モデル」において、異熟識の種子が六識(心法)の性質を決める働きと、六識(心法)の活動による余習を種子として異熟識に置く働きが同刹那に表記していますが、これはあくまで筆者の私見に過ぎません。世親が忠実に経量部のルールに従って考えたとする場合、前刹那の異熟識の種子が次刹那の六識の性質を決め、前刹那の六識活動による種子が次刹那の異熟識に置かれるというモデルの方が正しいためです。しかし、後の彼の唯識思想では異熟識が阿頼耶識となり、両者の識の相互作用が同刹那に起こる形式となるため、世親がこの頃から経量部ルールとは違った考え方をしていた可能性があると思い、上の図のように表現してみました。
難しい話になりましたが、要は唯識思想の原点は「華厳経」だけでなく、アビダルマ仏教、特に「経量部」の種子説なども原点になっているということです。