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【大乗仏教】如来法身の遍在

前回の記事の続きになります。

如来法身が応身(化身・色身)の仏として、世に現れるという思想を前回の記事で説明しましたが、今回は如来法身が万物に遍在しているという思想を見ていきたいと思います。

『華厳経 如来性起品』より
如来性起妙徳菩薩:
「仏子よ、菩薩大士は正しく完全な覚りを開いた世の尊敬を受けるに値する如来達の可見の身をどのように見られるものと理解すべきであろうか。」
普賢菩薩:
「仏子よ、菩薩大士は如来の可見の身をば、それが無限にどこまでも現れるという点を通して理解すべきである。仏子よ、それは何故であるか。如来の可見の身を菩薩は一つの性質、一つの特徴、一つの身体、一つの国土、一種の衆生によって理解すべきではないからである。何故か。仏子よ、如来の可見の身は至るところに従い行くものと菩薩は理解しなければならないからである。」
「仏子よ、即ち例えば虚空界は至るところにつき従って行く。それは欲望を持つ者の世界(欲界)にも、形ある者の世界(色界)にも、形なき者(無色界)にも、場所という場所の全てに偏在しているが、しかも、如何なる所へ行くことはないと知るべきである。それは何故であるか。それは虚空には形が無いからである。仏子よ、如来の身もまた、至るところにつき従って行き、一切の衆生、一切の現象、一切の国土に遍く偏在すると知るべきである。それにも関わらず、どこに行くこともなく、どこに去ることもない。~
更にまた、仏子よ、例えば大陸に日が昇る時、光明は限り無くそそいで、無量の種類の衆生を利益する。即ち、山に降りそそいでは草や森林を生長させることによって、衆生を利益し、闇の暗黒を除いて照らし出すことによって利益し、地に降りそそいでは沼沢を乾し上がらせて利益し、穀物に降りそそいではよく実らせて利益し、森林や薬草に降りそそいでは芽生え生長させて利益し、虚空に降りそそいでは虚空中を行く生き物達を利益し、~水に降りそそいでは水中で生活する生き物によく受用させることによって利益する。それは何故であるか。それは日輪が無量の光明を生むからである。それと同様に、仏子よ、如来の可見の身という太陽もまた、量り知れない多種なあり方で、一切の衆生を利益する。~それは何故であるか。如来の身という太陽は無量の智慧という光明の輪をそなえているからである。」

また、「華厳経 十地品」では万有即ち仏身であることがより明確に説かれています。菩薩大士は一切の生物界(衆生身)、国土・山川などの自然界(国土身)、道徳界(業報身)、声聞身、縁覚身、菩薩身、真理の体現者(仏陀その人・如来身)、霊覚の智性(智身)、永遠の真理(法身)、虚空身など総ては仏身であることを知るとあります。

○如来蔵思想
心は本来浄く輝いているということは「八千頌般若経」やその他の大乗経典でも説かれていますが、光り輝く心を心の本性として特に強調し、それを最高実在と見なしたのは如来蔵思想の系譜に属する「究竟一乗宝性論」です。如来蔵思想は「華厳経 性起品」における如来の出現の思想を継承発展させたものと推定されており、如来の出現とは釈尊が最高の真理を覚って仏・如来となることを意味すると同時に、その如来の本質である法身が様々な化身の姿でこの世に顕現し、身・語・意の働きを示現することをも意味しました。如来の法身がこの世に顕現するという考え方は衆生の一人一人に如来の本質、すなわち仏性が宿っているという如来蔵思想へと展開します。

如来蔵の原語は、如来(tathāgata)と胎児(garbha)との複合語で、如来を胎に宿しているものという意味です。後に「勝鬘経」等では如来の胎児の意味で解釈し、これは如来を如来たらしめている本性であるとして法身そのものであるとします。しかし、衆生がそのまま如来ではなく、その法身が煩悩をまとっているから、まだ如来の働きを発揮しない状態にあるのだととして、「在纏位の法身」と解釈しています。如来蔵は具体的には衆生の自性清浄心を指し、これが菩提心をおこさせ、修行して悟りへ到達させる原動力となると考えられます。