前回の記事の続きになります。
如来法身が応身(化身・色身)の仏として、世に現れるという思想を前回の記事で説明しましたが、今回は如来法身が万物に遍在しているという思想を見ていきたいと思います。
また、「華厳経 十地品」では万有即ち仏身であることがより明確に説かれています。菩薩大士は一切の生物界(衆生身)、国土・山川などの自然界(国土身)、道徳界(業報身)、声聞身、縁覚身、菩薩身、真理の体現者(仏陀その人・如来身)、霊覚の智性(智身)、永遠の真理(法身)、虚空身など総ては仏身であることを知るとあります。
○如来蔵思想
心は本来浄く輝いているということは「八千頌般若経」やその他の大乗経典でも説かれていますが、光り輝く心を心の本性として特に強調し、それを最高実在と見なしたのは如来蔵思想の系譜に属する「究竟一乗宝性論」です。如来蔵思想は「華厳経 性起品」における如来の出現の思想を継承発展させたものと推定されており、如来の出現とは釈尊が最高の真理を覚って仏・如来となることを意味すると同時に、その如来の本質である法身が様々な化身の姿でこの世に顕現し、身・語・意の働きを示現することをも意味しました。如来の法身がこの世に顕現するという考え方は衆生の一人一人に如来の本質、すなわち仏性が宿っているという如来蔵思想へと展開します。
如来蔵の原語は、如来(tathāgata)と胎児(garbha)との複合語で、如来を胎に宿しているものという意味です。後に「勝鬘経」等では如来の胎児の意味で解釈し、これは如来を如来たらしめている本性であるとして法身そのものであるとします。しかし、衆生がそのまま如来ではなく、その法身が煩悩をまとっているから、まだ如来の働きを発揮しない状態にあるのだととして、「在纏位の法身」と解釈しています。如来蔵は具体的には衆生の自性清浄心を指し、これが菩提心をおこさせ、修行して悟りへ到達させる原動力となると考えられます。