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【大乗仏教】唯識派 三性説④

弥勒(マイトレーヤ)の著書「中辺分別論」における三性説の続きになります。想像よりもかなり長くなってきましたので、少し急ぎ足になります。

『中辺分別論』より:
弥勒:
・識が生起する時、それは対境として、有情として、自我として、及び表識として四通りに顕現する。
・しかし、識の顕現としての四通りの対象は実在しない。それが存在しないから、彼(すなわち識)もまた存在しない。
・それ故に、それ(即ち識)が虚妄なる分別であることが成立した。なんとなれば、(識は)そのままに(真実として)あるのでもなく、また、あらゆる点でないというのでもないからである。
・(なんとなれば、)それ(即ち識)が滅尽することによって解脱があることが認められるからである。
・妄想されたもの(遍計所執性)と、他に依るもの(依他起性)と、完成されたもの(円成実性)とは、(順次に)対象であることから、虚妄なる分別ということから、二つのものの無であることから説かた。~

・一つは縁(因)としての識であり、(現象的な面において)享受などに関係するものが第二の識である。そこ(第二の識)には、享受すること、判断すること、及び動かすものとしての諸々の心作用がある。

あくまで筆者は次のような意味と考えていますが、様々な説があります。

・識(阿頼耶識の種子)が現勢化する時、それは{色声香味触法}の六境として、{眼耳鼻舌身意}の六根として、末那識として、及び{眼耳鼻舌身意}の六識として四通りに顕現する。
・しかし、識(阿頼耶識の種子)の顕現としての四通りの対象(相分・見分)はそれ自体としては実在していない。四通りの対象がそれ自体として存在しないのであるから、識もまたそれ自体として存在しない。
・それ故に、識が(迷乱の)虚妄なる分別であることが成立した。なぜなら、識はそれ自体として実在しないにも関わらず、あたかも実在するかのように物事を分別するため、幻のようには実在し、無いと言い切れないため。
・更には、その識(虚妄分別=依他起)が滅尽することによって、(輪廻からの)解脱があるため。
・遍計所執と、他依起と、円成実とは順次に、(本体としての四通りの)対象であることから、虚妄なる分別(識)であることから、二つのもの(識と第二の識としての四通りの対象)の無であることから説かれた。~
・識とは、一方では潜在的な原因の識として生起し、他方では結果としての現勢的・現象的な識として生起する。阿頼耶識は前者であり、それ以外の七つの諸識(第二の識としての四通りの対象)に対して原因となるため、原因の識である。それを縁として現勢的に機能している七つの識(転識)が享受などに関するものである。

○空性

『中辺分別論』より:
弥勒:
・実に、二つのものが無であることと、(その)無が有であることが空(性)の相である。
・有ということでもなく、また無ということでもない。別である、あるいは同一である。というような相ではない。
・そのままにあること(真如)、実在の極限(実際)、(因果の)相のないこと(無相)、最高の真理(勝義)、法の根源(法界)、要約すれば、これらが空性の同義語である。
・変わらないこと、倒錯でないこと、それが滅していること、聖者の(知の)対象領域であることによって、また聖なる法の原因であることによって順次に同義語の意味が知られるべきである。
・汚染された空性があり、また清浄にされた空性がある。それはまた、垢れを伴うものであり、また垢れを離れたものである。水界や黄金や虚空が清浄であるのと同じく、その意味において、もともと清浄であると考えられるからである。
・享受者(六根)と、享受(六境)と、その身体と、場所としての物体(器世界)と(の四者)の空性がある。また、それ(四者の空であること)が、あるもの(知)によって、ある様態をもって、また、あることを目標として見られるとき、これら(ある知、ある様態など)もまた空性である。
・個我の無(我空)と、諸々の存在の無(法空)とが、ここにおける空性であり、またその無の実在することが、この場合のもう一つの空性である。
・それ(空性)は、汚染されたものでもなく、汚染されていないものでもない。また、清浄でもなく、清浄にされていないものでもない。「どうして、汚染されたものでもなく、また清浄にされていないのでもないのか。それは本性として」、心は輝き浄らかなものであるからである。「どうして、汚染されていないのでもなく、また清浄でもないのか。」、また、(心に潜む)煩悩は偶然的・外来的なものだからである。

汚染された空性とは、偶然的・外来的な潜在煩悩に覆われた、本来清浄な光り輝く心です。清浄にされた空性とは、その潜在煩悩が取り払われた状態です。

>享受者(六根)と、享受(六境)と、その身体と、場所としての物体(器世界)と(の四者)の空性がある。また、それ(四者の空であること)が、あるもの(知)によって、ある様態をもって、また、あることを目標として見られるとき、これら(ある知、ある様態など)もまた空性である。
>個我の無(我空)と、諸々の存在の無(法空)とが、ここにおける空性であり、またその無の実在することが、この場合のもう一つの空性である。

享受者(六根)と、享受(六境)と、その身体と、場所としての物体(器世界)との四者とは相分です。あるもの(知)とは見分です。これらは虚妄分別であり、自体(個我や諸々の存在)として存在せずに幻のような存在なので、そのような意味での空性に該当します。それらが全て無と否定された後にも尚実在するのがもう一つの空性である光り輝く心です。

>それ(空性)は、汚染されたものでもなく、汚染されていないものでもない。また、清浄でもなく、清浄にされていないものでもない。「どうして、汚染されたものでもなく、また清浄にされていないのでもないのか。それは本性として」、心は輝き浄らかなものであるからである。「どうして、汚染されていないのでもなく、また清浄でもないのか。」、また、(心に潜む)煩悩は偶然的・外来的なものだからである。

変化せず、恒常な光り輝く心が空性である理由は、無常な外来煩悩に覆われているため、総合的に「不垢不浄」という意味で、空性となります。

○三性

『中辺分別論』より:
弥勒:
・存在(法)と個我とについて、また知られるものと知るものについて、更に存在することと存在しないことについて、有と誤認したり、無と誤認したりする観念が起こる。あるものを知ることによって、それら(二種の誤認)が止滅するならば、その知られたあるものこそ、三自性の真実が有する相である。
・無常の意味は、まことに実在でないという意味であり、生じては滅する相のあるものであり、また垢れをともなうと垢れがないとのあり方をもつものとして根本の真実の上に順次みられる。
・(滅は三種であり、それによって滅の心理が根本の真実の上にある。滅の三種とは)自体が生じないこと、二つのものが生じないこと、二様に垢れが寂静にされていることとして考えられる。

・遍計所執:存在(法)と個我
 =妄想された本体としての客観と主観
 =実在しない
・依他起:知られるものと知るもの
 =虚妄分別である、
  阿頼耶識(第一の識)と七識(第二の識)
 =刹那刹那に生じては滅する
・円成実:存在することと存在しないこと
 =浄く輝く心と外来的な煩悩の塵垢
 =自らは無常でなく、恒常であり、
  外来の夾雑物によって垢れをともなうが、それ自身は垢れがない