弥勒(マイトレーヤ)の著書「中辺分別論」における三性説の続きになります。想像よりもかなり長くなってきましたので、少し急ぎ足になります。
あくまで筆者は次のような意味と考えていますが、様々な説があります。
・識(阿頼耶識の種子)が現勢化する時、それは{色声香味触法}の六境として、{眼耳鼻舌身意}の六根として、末那識として、及び{眼耳鼻舌身意}の六識として四通りに顕現する。
・しかし、識(阿頼耶識の種子)の顕現としての四通りの対象(相分・見分)はそれ自体としては実在していない。四通りの対象がそれ自体として存在しないのであるから、識もまたそれ自体として存在しない。
・それ故に、識が(迷乱の)虚妄なる分別であることが成立した。なぜなら、識はそれ自体として実在しないにも関わらず、あたかも実在するかのように物事を分別するため、幻のようには実在し、無いと言い切れないため。
・更には、その識(虚妄分別=依他起)が滅尽することによって、(輪廻からの)解脱があるため。
・遍計所執と、他依起と、円成実とは順次に、(本体としての四通りの)対象であることから、虚妄なる分別(識)であることから、二つのもの(識と第二の識としての四通りの対象)の無であることから説かれた。~
・識とは、一方では潜在的な原因の識として生起し、他方では結果としての現勢的・現象的な識として生起する。阿頼耶識は前者であり、それ以外の七つの諸識(第二の識としての四通りの対象)に対して原因となるため、原因の識である。それを縁として現勢的に機能している七つの識(転識)が享受などに関するものである。
○空性
汚染された空性とは、偶然的・外来的な潜在煩悩に覆われた、本来清浄な光り輝く心です。清浄にされた空性とは、その潜在煩悩が取り払われた状態です。
享受者(六根)と、享受(六境)と、その身体と、場所としての物体(器世界)との四者とは相分です。あるもの(知)とは見分です。これらは虚妄分別であり、自体(個我や諸々の存在)として存在せずに幻のような存在なので、そのような意味での空性に該当します。それらが全て無と否定された後にも尚実在するのがもう一つの空性である光り輝く心です。
変化せず、恒常な光り輝く心が空性である理由は、無常な外来煩悩に覆われているため、総合的に「不垢不浄」という意味で、空性となります。
○三性
・遍計所執:存在(法)と個我
=妄想された本体としての客観と主観
=実在しない
・依他起:知られるものと知るもの
=虚妄分別である、
阿頼耶識(第一の識)と七識(第二の識)
=刹那刹那に生じては滅する
・円成実:存在することと存在しないこと
=浄く輝く心と外来的な煩悩の塵垢
=自らは無常でなく、恒常であり、
外来の夾雑物によって垢れをともなうが、それ自身は垢れがない