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【大乗仏教】如来蔵とアートマン(真の自己)

前回の記事に続きになります。

前回は如来蔵を「光り輝く心」という点から見ていきました。今回は如来蔵を仏性や如来法身から分化したものという点から見ていきます。

如来蔵経より
「我が家のよき息子達よ、正しく完全な覚りを開いた世の尊敬を受けるに値する如来もまた、自身の持つ超越的な般若の叡智とそれに基づく知識と、如来の眼をもって、貪り、怒り、無知をはじめとする根元的執着(渇愛)と根元的無知(無明)に基づく幾百コーティと数知れぬ煩悩の蔽いに纏われた衆生達の内部にその如来と同じ智慧を持ち、眼を持った如来があって坐禅を組んで不動でいるのを見る。如来はこのように煩悩によって汚された彼ら全ての内部に如来の本性(法性)が動くことなく存在し、その衆生が輪廻の諸道のいずれにあろうとも何ら汚されないでいるのを見て、それら衆生の内なる如来達は私とそっくりだと言う。我が家のよき息子達よ、如来の眼というものは、そのように見事なもので、如来はその如来の眼をもって、全ての衆生は如来をその内部に宿している(一切衆生如来蔵)と関するものである。」

如来蔵は、遍在する如来法身の一部が我々衆生に宿ったもので、それ自体は清浄であるものの、煩悩によって覆われています。「智光明荘厳経」における光り輝く心と同じものであることが分かります。

不増不減経より
「シャーリプトラよ、この法身は不生・不滅性のものである。それは過去の極限をもたず、未来の極限をもたない。~
シャーリプトラよ、この如来の法身は常住である。尽きることのない性質のものとして、異ならない性質のものであるから。~
シャーリプトラよ、この如来の法身は寂静である。分別判断を離れた性質のものとして、主客の二の無いものであるから。~
シャーリプトラよ、この同じ法身が無辺際の果てしなく多くの煩悩に纏いつかれ、輪廻生存の流れに身をまかせて漂いながら、はじまるところを知らない輪廻生存の諸道に生まれてはまた、死ぬことを繰り返しつつある時、衆生界と呼ばれる。~
また、シャーリプトラよ、次の如く知るべきである。如来蔵は煩悩の蔽いという清浄ならざる諸性質といつ始まったとも知れず共存しているが、それと本質的には結合していない性質のものであるとは、この過去の極限よりこのかた存在するが、分離性の、(智慧とは)無関係な、本質的に結合しない煩悩の蔽いという清浄ならざる諸性質は、ただ如来の菩提の智慧によってのみ断絶されるものであるということである。シャーリプトラよ、私はこの本質的に結合していない煩悩の蔽いに纏われた不思議なる法の根元という点に基づいて、衆生に関してこれを一時的に付着した煩悩によって汚染された自性清浄心という不可思議なものと説くのである。」

我々の如来蔵があらゆる煩悩に纏わりつかれているために、我々は輪廻するということです。纏わりつくといっても、如来蔵は煩悩と本質的には結合しているわけではなく、次元を異にしている(恒常な存在である)ことが分かります。

勝鬘経 諦章~如来蔵章より
「世尊よ、聖なる真理の意義の解釈は深遠で、難知、難解、分析不可能であり、理論の領域ではなく、ただ聡明な知者のみ知るところ、とても世間的常識では及びもつきません。それはなぜかと言えば、世尊よ、この深遠な教義の解釈はひとえに如来蔵と呼ばれる。如来たるべき本性が衆生の内に胎児の状態で存在するということであるからです。
世尊よ、この如来蔵は衆生の全てにあるとは言っても煩悩の蔽いに纏われていて、凡夫には了解しがたいのですが、ある限りの全ての煩悩の蔽いに纏われた如来蔵があることを信じて疑わないものは誰でも、その全ての煩悩の蔽いから解放されたところの如来の法身についてもまた、疑いを抱くことがありません。世尊よ、その心に如来蔵と如来の法身という二つは不可思議な仏だけの知ろしめす領域である。
世尊よ、この如来蔵が空性を示すと知ること(如来蔵空知)は次の二種を内容としています。二種とは何かと言えば、即ち次の通りです。世尊よ、如来蔵には、もともと法身と無関係で覚りの智慧から切り離されたあらゆる煩悩の蔽いが欠如している。つまり、空である。したがって、煩悩は虚妄で非存在であるが、世尊よ、如来蔵は法身と密着不可分で覚りの智慧と切り離し得ないところのガンガー河の砂の数より多い、不可思議なる仏の諸徳性を本来、そなえている。つまり、不空であるということです。
世尊よ、衆生が本来もっている如来たるべき本性、即ち、如来蔵は生死輪廻する場合の拠り所です。世尊よ、如来蔵があるからこそ輪廻が成立すると言えば、これは理に適っております。…ところで世尊よ、この死といい、生ということは世間の常識的な言い方です。世尊よ、死とはこれ、諸感官の機能停止、生とはこれ、新しい感官の発生であります。ところが、世尊よ、如来蔵には生も死も、滅も起もありません。世尊よ、如来蔵は縁起の法則に基づく、生滅・変化を特質とする有為の存在の領域を超え、常住・堅固・寂静・永続的であります。それ故、世尊よ、如来蔵は法身と本質的に結合した不可分離の、また覚りの智慧と切り離せないところの真実絶対の諸徳性(無為法)にとって、拠り所、支え、基礎たるものであります。同時に世尊よ、法身と本質的に矛盾し、それから分離し、覚りの智慧とは無関係な迷いの世界の諸性質(有為法)にとってもまた、拠り所、支え、基礎たるものは如来蔵になります。世尊よ、この如来蔵がもし無いとすれば、人が苦を厭い、涅槃を望み、憧れ求め、これを得ようと誓うこともないでしょう。それは何故かと言えば、世尊よ、それは(眼その他の感官による)六種の認識作用と、認識作用それ自体(としての心)という、これら七つは瞬間的存在で、一瞬たりとも持続せず、したがって苦を感受することはありませんから、それらのものが苦を厭い、涅槃を望み、憧れ求め、これを得ようと誓う(主体である)ということは理にかないません。(これに対して)世尊よ、如来蔵は初めも知られず、終わりもなく、不生不滅のものですから、苦を感受します。それ故にこそ、世尊よ、如来蔵は苦を厭い、涅槃を望み、憧れ求め、これを得ようと誓う(ところの主体)なのであります。こう言えば、人は如来蔵とは異教で言う自我(アートマン)と同じではないかと思うかも知れませんが、世尊よ、如来蔵を決して我・存在・生命・個我(のような実体)ではありません。世尊よ、如来蔵はそのような実体概念(有身見)に陥った衆生達や、転倒した見方に捉われている衆生達、ないしは空の原理について心が混乱し、誤解している衆生達にとっては理解の及ぶ領域ではありません。世尊よ、如来蔵は真実の教えを生み出す根源(法界)としての如来の胎児、法身としての如来の胎児、世間的価値を超えた絶対的な如来の胎児、本性として清浄な胎児であります。」

後の「勝鬘(シュリーマーラー)経」等では如来蔵は如来の胎児の意味で解釈され、これは如来を如来たらしめている本性であるとして法身そのものであるとします。これまでのお話同様、衆生がそのまま如来ではなく、その法身(如来蔵)が煩悩をまとっているから、まだ如来の働きを発揮しない状態にあるのだととして、「在纏位の法身」と解釈されています。如来蔵は具体的には衆生の自性清浄心を指し、これが菩提心をおこさせ、修行して悟りへ到達させる原動力となると考えられました。

このように、如来蔵はアートマン(真の自己)とは異なると説きますが、完全に瓜二つです。下の図は筆者が考える原始仏教のモデルですが、真の自己と如来蔵が同じものであることが分かります。

それをただ、固有の実体とするかしないかの違いだけではないかと思います。

①空を本体視しない
全てのものに固有・共通のいずれの自性(本体)もなく、自性の無いもの同士が互いに因縁によって集合・離散することで諸現象を生起・継続・消滅させている様を「空・空性」と表現する場合です。
  ●固有の自性(本体) ×
  ●共通の自性(本体) ×

②空を本体視する パターンA
全てのものに固有の自性(本体)はないが、「空・空性」という、特徴を持たない共通の自性(本体)があるとする場合です。「空・空性」から分化した一切のもの同士は互いに、空性という点で繋がっており、因縁によって集合・離散することで諸現象を生起・継続・消滅が起きているとします。
  ●固有の自性(本体) ×
  ●共通の自性(本体) ○

③空を本体視する パターンB
常住・清浄なものであっても、無常・雑染(煩悩性)なものに覆われていれば、その常住・清浄なものを「空・空性」と表現する場合です。具体的には「如来蔵(仏性)」「如来法身」「光り輝く心」「自性清浄心」「真如」等と言い表されるものです。

既に述べましたように、③が如来蔵思想の空性に該当します。