前回の記事に続きになります。
前回は如来蔵を「光り輝く心」という点から見ていきました。今回は如来蔵を仏性や如来法身から分化したものという点から見ていきます。
如来蔵は、遍在する如来法身の一部が我々衆生に宿ったもので、それ自体は清浄であるものの、煩悩によって覆われています。「智光明荘厳経」における光り輝く心と同じものであることが分かります。
我々の如来蔵があらゆる煩悩に纏わりつかれているために、我々は輪廻するということです。纏わりつくといっても、如来蔵は煩悩と本質的には結合しているわけではなく、次元を異にしている(恒常な存在である)ことが分かります。
後の「勝鬘(シュリーマーラー)経」等では如来蔵は如来の胎児の意味で解釈され、これは如来を如来たらしめている本性であるとして法身そのものであるとします。これまでのお話同様、衆生がそのまま如来ではなく、その法身(如来蔵)が煩悩をまとっているから、まだ如来の働きを発揮しない状態にあるのだととして、「在纏位の法身」と解釈されています。如来蔵は具体的には衆生の自性清浄心を指し、これが菩提心をおこさせ、修行して悟りへ到達させる原動力となると考えられました。
このように、如来蔵はアートマン(真の自己)とは異なると説きますが、完全に瓜二つです。下の図は筆者が考える原始仏教のモデルですが、真の自己と如来蔵が同じものであることが分かります。
それをただ、固有の実体とするかしないかの違いだけではないかと思います。
既に述べましたように、③が如来蔵思想の空性に該当します。