【大乗仏教】唯識派 三性説①
今回より、唯識思想の中でも難しいと言われる「三性説」に入っていきます。この「三性説」において、弥勒(マイトレーヤ)・無著(アサンガ)同一人物説の矛盾を示していきたいと思いますので、少々長くなります。
三性(三種の存在形態)は唯識派によって創説されたものではなく、元来は「般若経典」に説かれていた教えを唯識派が学説化したとされています。陳那(ディグナーガ)は『八千頌般若経』の網要をまとめた「般若経の要義」中で以下のように述べています。
ここにおいて、「仮構されたもの」が「遍計所執性(遍計所執相)」、「他に依存するもの」が「依他起性(依他起相)」、「完成されたもの」が「円成実性(円成実相)」に該当します。「仮構されたもの」とは、説一切有部等が主張するような、言語・概念などを本体視した存在形態を指します。故に、「般若経」では「それは存在しない」としています。後の世親(ヴァスバンドゥ)の『唯識二十論』において、〔愚か者達は主観・客観というようなありもしないものの本性(自性)を仮構(遍計)している。この構想された形としては、ものは実在しないのである。〕と説かれています。次の「他に依存するもの」は「幻のごとくである」と説かれていることから、様々な因縁によって成り立つ存在形態であることが分かります。最後の「完成されたもの」は「真如」であり、煩悩に覆われてはいるが、それ自体は清浄である「浄く輝く心」です。ややこしいのは、「幻のごとくであるもの」及び「真如」の両方に空・空性という言葉が当てはまる点です。
さて、唯識系の経典の中でも最古層に位置する『解深密教』の段階では、ほぼ『八千頌般若経』と同じです。
・遍計所執相(遍計所執性)
=諸法の自性や特殊性(差別)を言語習慣によって概念化したもの
=特質の無い法
・依他起相(依他起性)
=諸法の縁起
=雑染を特質とする法
※様々な縁起によって生じたに過ぎないものを我々凡夫は、あたかもそれが(それ自体として)存在するかのように把握して、「概念設定されたもの=特質の無いもの」を次々と生み出して執着します。即ち、この依他起相は遍計所執相によって汚染されているとします。
・円成実相(円成実性)
=諸法の真如
=清浄を特質とする法
※特質の無い法(遍計所執相)を如実に理解することで、雑染を特質とする法(依他起相)を捨てられ、そして得られる清浄を特質とする法。
依他起を汚染させているのは遍計所執ですが、円成実を得るためには依他起をも雑染の特質として捨て去られるべきものとされます。