【原始仏教】欲界・色界・無色界
今回は三界の思想について、見ていきたいと思います。
①「粗い、色があり、四大要素からなり、(母と父から生まれ)物質食を食べる我」とは人間の欲界の我であり、肉体に属する我のことです。
②「色があり、意からなり、大小すべての四肢があり、欠けるところの無い感官(五根)を備えた我」とは人間の色界の我であり、意成身(霊体・幽体)に属する我のことです。
③「色の無い、想からなる我」とは人間の無色界の我であり、想(意識)を有する霊魂(自己・アートマン)に属する我のことです。
ここまでは、既に以下の記事で紹介した内容になります。
「ポッダパーダ経」では、人が真の自己(アートマン)と誤解する三種類の我として説明されますが、それが九次第定の境地と結びつき、以下のような三界思想へと発展したのではないかと筆者は考えています。
三界は衆生(我々)が業(カルマ)に応じて、死と再生を繰り返しながら輪廻する世界として以下のようになります。ただし、あくまで筆者の私見に過ぎませんが、釈尊の直説部分と後から追記された部分が混ざっているような印象を受けます。特に三界と宇宙観を結び付けた須弥山(スメール山)世界は原始仏典にも登場しますが、釈尊の入滅後に継ぎ足されたように筆者は感じます。よって、釈尊が説いた九次第定がそのまま以下の三界に対応しているか否かは不明です。
我々衆生は煩悩に基づいて身・口・意の三業を作り、その行為が因となって果報としての苦を享受しています。このような自業自得の迷いの世界(三界)は世間とも呼ばれ、世間に二種類があります。一つには衆生そのものを有情世間と名付けます。二つには自然環境を器世間と名付けます。この器世間も過去における衆生の業の蓄積によって形成されたものとみなされます。そして、器世間は成劫(成立)・住劫(存続)・壊劫(破壊)・空劫(物質が極微として空中に浮遊する状態)の劫を無限に繰り返すといいます。
【業(カルマ)を運ぶ輪廻の主体アートマン】
衆生(生命)がある生涯から死没した際、身体に宿っていたアートマン(霊魂・真の自己)が身体から離れ(離れるといってもアートマンは世界外・身体は世界内存在なので別次元に存在する)、そのアートマンに業(カルマ)、残存印象、潜在煩悩(五下分結・五上分結・七随眠など)が結合してゆくという言い方がされます(くどいようですが、業・残存印象・潜在煩悩は世界内存在なので本当の意味ではアートマンに結合していません)。業(カルマ)は善悪の意思・行為がそれぞれ功徳と罪障という種子となったもので、未来世の境涯・寿命・経験として結実します。残存印象は経験・学識や思考がその痕跡という種子となったもので、未来世の思考パターンや性格・人格・才能の根本として結実します。潜在煩悩は顕在煩悩が潜在化して種子となったもので、未来世の快(喜・楽)・不快(憂・苦)・どちらでもない感覚に対応して顕在煩悩として結実します。世界内存在である心身や器世間は無常であるのに対し、アートマンは世界外存在のため常住不変です。釈尊はこのアートマンは存在しないと説いたわけではなく、形而上学的に実体視することを極力排除し、弟子達に余計な議論をさせないようにしただけです。
【劫初の人間】
世界(宇宙)の始まりに天界の「極光浄天(光音天)」から死没して、人間(の意成身・霊体)は地上へ現れたと説かれます。大梵天・梵輔天・梵衆天と同様ですね。
「アダムとイヴ」の話と共通する部分もあるようです。劫初の人間の話ということですが、人間に生まれ変わるまでの段階を示していると思われる十二縁起(十二因縁)を理解する上で、このストーリーは重要になってきます。何らかの生命体(天・人・動物等)がその生涯から没し、人間へ転生する際も同様に業(カルマ)に従い、まず人間の意成身(霊体)が作られ、それが物質次元{欲(カーマ):色声香味触}と関わることで受胎(肉体の獲得)へとつながっていきます。
【梵天、シャンカラの不二一元論】
アビダルマ仏教では色界全体を色界梵天、無色界を無色界梵天と表現することがあります。梵天とは?ブラフマーとは?ブラフマンとは?時代が進むほどこれらが同一ではなくなってきている気がします。整理していきましょう。
さて、インドで最初に哲学を打ち出したのはウッダーラカ・アールニであり、彼はインド最古の哲学者と呼ばれ、彼の哲学は流出論的一元論の「有の哲学」と呼ばれます。世界の全てのものは一つの真実在である「有=ブラフマン=梵」から流出したとされるという哲学です。そして彼の哲学はヒンドゥー教へと受け継がれ、ヴェーダーンタ学派では「ブラフマン(梵)=アートマン(我)」とする典型的な梵我一如の流出論的一元論として理論を構築していきました。しかし、ウッダーラカ・アールニの後のヤージュニャ・ヴァルキャが我(アートマン)は世界外存在であるというものを打ち出すことになります(これは後の釈尊の五蘊非我の教えに共通します)。アートマン、つまりブラフマンに認識されてはじめて世界はその存在が確立されるというもので、二元論に近いものでした。我々は皆悉く違う世界認識をもっていますが、これは決して独我的ではないということになります。ところで、ウッダーラカ・アールニの「有の哲学」では世界を生み出すブラフマンは世界に遍満している世界内存在(ブラフマンは熱・水・食物に生命たるアートマンを伴って入り込んでいる)です。しかし、ヤージュニャ・ヴァルキャはアートマン、つまりブラフマンは世界の外に存在するとしています。ブラフマン、そしてそれから分化したアートマンは世界内と世界外のどちらにあるのか?一方を肯定すれば、もう一方が否定される状況にヴェーダーンタ学派は苦労しました。そんな中、サーンキヤ学派は一元論を捨て、世界を認識して確立させる世界外のブラフマンを自己(プルシャ)、世界を生み出すブラフマンを自性(プラクリティ)とする二元論(世界の根源であるブラフマンは二つ存在する)を打ち出すことでこの問題を解決しました。
○流出論的一元論は「不一不異論」
不一不異論とはアートマンはブラフマンの部分であり、両者は同一ではないが、全く別異でもないというものです。後の『ブラフマ・スートラ』も、流出論的一元論を採ります。即ちアートマン(我)はブラフマン(梵)の一部であり、ブラフマンの本質を受け継ぎながら分化したものであるとします。この不一不異論(流出論的一元論)は、不二一元論を主張したシャンカラ以前のヴェーダーンタ学派の伝統的な学説となりました。しかし、不一不異論ではブラフマンが世界外と世界内のどちらに存在するのかという問題を十分に解決することができなかったようです。
○シャンカラの「不二一元論」
シャンカラはヴェーダーンタ学派の一元論を守るために流出論を排斥することで、『ブラフマ・スートラ』の注釈に成功しました。シャンカラによれば、世界内の現象世界はそもそも幻力(マーヤー)であり、実際には世界外存在かつ幻影である世界(真実として非実在である世界)を創造する「アートマン(我)=ブラフマン(梵)」一つのものしか存在しないと言います。世界を幻影=流出論的世界を「無明」による産物とすることで、ブラフマン一元論を守りました。彼の教説は大乗仏教の空の思想やサーンキヤ学派から借用してきた理論が多く見られます。「不二」とは二つ目のものがないという意味であり、ブラフマンが世界内と世界外に両方あるという矛盾を解決しました。
○不二一元論によるブラフマンの二重構造
不二一元論においてブラフマンの二重構造、即ちブラフマンに二つの次元性が想定されており、無明に覆われているのは低次のブラフマンであるとします。無明に覆われた低次のブラフマンはマーヤー(幻力)として幻影なる世界を展開させます。もう一方は最高のブラフマンであり、絶対的無差別・不生不変・全一的存在です。最高のブラフマンは「無属性(=ニルグナ)ブラフマン」とも言われる不動の真理ですが、低次のブラフマンは「有属性(=サグナ)ブラフマン」と言われ、シヴァ神やヴィシュヌ神といった人格主宰神であり、無明によって制約されているとします。このように、後者が世界原因であり、前者は不動の真理であって世界原因ではありません。ブラフマンは二重構造があるということですが、同じ次元に並置されています(あくまで一元論ということです)。ブラフマンの二重構造を反映して、アートマンの二重構造を示すと見なせるといいます。最高のブラフマン=アートマン(真の自己)、低次のブラフマン=非アートマン=個我(ジーヴァ)と呼ばれるというものです。人の個我(ジーヴァ)は、その本体においてブラフマンと同一であるのですが、人が経験する現実では多数の個我があるように見えます。これは無明の力のせいとし、輪廻の原因とします。
○仏教の梵天を二重構造で考えてみる
釈尊の説く「涅槃」、つまり「真の自己(アートマン)」を最高のブラフマンとすると、色界の初禅天である梵天(ブラフマー)を含む広義の梵天も人格主宰神である低次のブラフマンに相当することになります。このように後世の発想を借りて考えると、多少は矛盾を解決できるかと思います。