「華厳経」以前の初期大乗仏教の経典においても、「如来は法を身体とする」という教えが登場しています。いくつか例を示します。
これらの思想が「華厳経」における「如来法身の偏在」という思想へ繋がったものと思われます。詳細は前回の記事をご参照ください。
如来法身の一部は我々衆生にも仏性(如来蔵)宿るとしますが、その我々に宿る仏性は「浄く輝く心」「光り輝く心」「自性清浄心」等と表現されます。煩悩に塗れた我々の心ですが、本来清浄であるという思想は、原始仏教経典(パーリ仏典)の頃から登場しています。
そして、「八千頌般若経」についても僅かに登場します。
それが中期大乗仏教頃の「智光明荘厳経」になると、明確に説かれるようになってきます。
如来蔵思想と唯識思想(マイトレーヤに帰せられる無形象唯識的思想に限られる)はどちらも「華厳経」の三界一心作の思想の展開ではないかと考えられています。不正確さを恐れずに、かなり雑な言い方をすると、心を真如とするのが如来蔵思想で、心を阿頼耶識とするのが唯識思想です。初期の唯識派の論書、つまりマイトレーヤの名で伝えられている論書には真如・法界が虚空のようにあらゆるところに遍満していることが強調されており、阿頼耶識という輪廻的存在の根拠が無であることを覚れば、法界に融け込んで真如そのものとなること、その人の仏性が開顕して人間としての制約を離れた無限の活動に従事するようになることが明確に説かれています。