一即一切・一切即一⑤
上の記事で「モナド(単子)」を取り上げましたので、今回はウパニシャッド哲学の哲人、ウッダーラカ・アールニとヤージュニャ・ヴァルキヤの「アートマン」思想を簡単に見ていきたいと思います。アートマンについては以前から何度も記事に登場していますが…。
釈尊が活躍する以前、即ち紀元前5世紀頃までに「ブリハドアーラニヤカ」、「チャーンドーギヤ」などのウパニシャドが成立していました。ウパニシャドに至って祭式の背後にある宇宙・個人が持つ形而上学的考察がなされ、絶対者として「ブラフマン(梵)」や「アートマン(我)」が立てられるようになります。そして、その絶対者を覚ることによって、輪廻の苦しみから解脱を得ることができるとし、祭祀の実行によってではないとしたのです。
ブラフマンが客体的・宇宙的原理であるのに対して、アートマンはむしろ主体的・人格的原理であるとされ、ウパニシャドではアートマンとブラフマンは本来同一であるとする「梵我一如」が代表的で、これによって解脱が達成されることになります。
アートマンはブラフマンの一部であり、ブラフマンの本質を受け継ぎながら分化したものとなります。この流出論的一元論は、シャンカラが不二一元論を主張するまでの間、ヴェーダーンタ学派の伝統的な学説となります。
ウッダーラカ・アールニの思想では、ブラフマンは自身が造り出した三原理の中に入り込んでおり、即ち自身が造り出した世界内・万物の中に存在します。一方、ヤージュニャ・ヴァルキヤは違ったアートマン思想を展開しています。
個人の輪廻の主体であり、個体の心臓にあるはずのアートマン(ブラフマン)が同時に体外全環境の万物(天体にまで及ぶ)の中に存在し、制御していることから、ヤージュニャ・ヴァルキヤの世界観は一人一宇宙で、大乗仏教の唯識派との共通点も見られます。
ブラフマンが、西洋哲学における「神」に該当する概念と思われますが、前者はヒトが到達できる境地であるのに対し、後者はヒトが到達できない存在である点は大きく異なります。